多分、救いのない話。-6--7
学校関係者が捜し回り、日付も変わろうとした時。一旦帰ってもらうように言ったのは、社長じゃなく火口だった。火口もまた、心当たりを捜したが、慈愛は見つかっていない。
「大丈夫か、社長……」
社長はいつもと変わらないように振る舞っているが、酒の力を借りているあたりやはりダメージは大きいのだろうと思う。社長は決して酒に強い方でも、好きな方でもない。
「大丈夫では決してないのでしょうね」
返事は素っ気ないが、自分を客観視出来るくらいには冷静さを保っている。それがいいことなのかどうか、火口には分からなかった。
いつから社長はここまで不可解な女だったのだろうか。出会った時はこうじゃなかった気がする。それとも、出会った時から彼女は壊れていて、彼女はそれを上手く隠していたのだろうか。
「……社長」
「晃さん」
一瞬、誰のことか分からなかった。きっちり三秒後、自分を呼ばれたのだと気付き、「あ、」……下の名前で呼ばれるのは、学生時代、彼女が壊れていることを隠さなくなった時から、一度もなくて、だから。
「あ……しゃ」
戸惑う。そんな場合じゃないのに。
社長は、――彼女に浮かぶのは、優しく穏やかな、慈愛<めぐみ>が大好きな慈愛<じあい>に満ち満ちた、母親の笑顔。
「――晃さん」
何故、この笑顔を見ているのが、メグちゃんじゃなく、自分なのだろう?
「少し、話に付き合って欲しいのだけど……いいかしら?」
「……」
「……ごめんなさい。貴方も疲れてるのにね」
「……いや、びっくりしただけやから」
探り探り、だけど昔のように。言葉が勝手に紡がれる。
「下の名前で呼ばれるん、何年もあらへんかったから。……びっくりした」
「……そうね。驚いた?」
「めちゃくちゃ」
素直にそう言うと、彼女は笑った。昔みたいに。自分の好きな、彼女の微笑。誰がこの微笑を見て、彼女が壊れていることに気付けるだろう。少なくとも、火口には無理だった。知っている、今この場でさえも。
「…………。あのね」
ゆっくりとした、何処か達観したような口調は、やはり穏やかだった。
「慈愛が私の事を嫌いになって、二度と私と会わない。それぐらいの覚悟で家を出たなら、私はそれを受け止めてもいい」
本心、なのか。それが。
「ただ、慈愛の願う事は、きっと違う。それぐらいはね、理解るの。私には」
狂信的な、しかし当たり前のような、断定。
「慈愛が求めていること。私はそれを知っていて、だけど無視してきた。」
淡々と紡がれる言葉は、本人の中で完結していて、話が見えない。
「慈愛が求めていること。私が慈愛に我慢させてきたこと。それをしたら、きっと私は……」
だけど、初めて聴く、彼女の本心は、聴き逃してはならない。
「晃さん、貴方は」
独白は、唐突に詰問に変わった。
「――死ねる? 私と慈愛の為に」
……利き手には、いつの間にか、大振りのナイフがあった。柄にやけに装飾の入った、火口も見た覚えのあるナイフ。
「ただ、私があの娘の母である為だけに」
ナイフは、火口の喉元に突きつけられた。
「ただ一瞬、私が私である為だけに、――死ねる?」
――答えは当たり前のように、決まっていた。
「ええよ」
あまりに軽い、だけども硬い言葉を、彼女は受け取って、優しく微笑う。
そしてナイフは火口の喉に押し当てられた。