がんばれ!松本くん-4
警官から上手く逃れ、俺は犬の行方を探していた。路地裏を少し歩いた所で、わんわんと鳴き声がした。振り返ると、大きな屋敷の庭先であの真っ白な犬が吠えている。俺は慌ててその家のチャイムを鳴らした。
「はい」
インターフォン越しに落ち着いた男の人の声が返ってくる。
「あ、あの、俺松本って言います。ちょっとこの家に用事がありまして」
言ってから疑問に思った。用事って言ったって、犬の食べたモンブランが欲しいんです。なんて言ったら、変質者扱いでまた警察呼ばれるかもしれない。
「旦那様に御用でしょうか?」
「ああ、いや。犬にです」
「犬……ですか?」
男の人は暫く間を置いてから少々お待ち下さい、と言った。
やっぱりマズイだろうか。犬フェチに思われたかもしれない。家の犬を誘拐しにきた変質者……いや、違うんだ。俺は犬の食べたモンブランに用事があって、犬に用事がある訳ではない。
「あのー」
ぶつぶつ独り言を唱える俺の顔を男の人が覗き込んだ。
「家のパトリシアに御用との事ですが。私、執事の神崎と申します」
神崎は頭のてっぺんから足の爪先まで、隈なく俺を凝視する。
「あ、はい。えっと……何て言ったらいいかな。つまりその、これには訳がありまして。俺は決して怪しい者じゃないんです。まして犬フェチなんかじゃない」
神崎は、俺が口を動かせば動かす程、訝る様子を見せる。
「あの、モンブランが欲しいんです。ぱぱパトリシアちゃんが食べてしまった」
「パトリシアが食べた物を?どうするんです。吐き出させるんですか?」
暑さと混乱で目が回ってくる。
「違います、違います!ただ、あのモンブランはパトリシアちゃんが食べたので最後なんです。今日中に……今日あれを持って帰らないと」
俺は喉を詰まらせる。言いたい事は沢山あるのに、上手く説明できない自分が憎い。中澤さんに持って帰ると約束したのに。モンブラン一つ買ってこれないなんて、なんて情けない男だ、俺は。
「そういう事でしたら、あの店のパティシエとは知り合いですから、もう一つ作って貰えるよう頼んでみましょうか?」
俺は耳を疑った。顔を上げ、神崎に目を凝らす。
「いいんですか?」
「ええ。困っている人を助けるのが人情というものですから」
この人は神だ。まさに救世主。不毛な俺の恋を救ってくれるキューピッド。胸の中で俺は小躍りする。
「ただし、一つ条件が」
神崎が人差し指を立てて言った。稲妻が落ちた。小躍りをぴたりと止め、今度は急降下する。
神崎は咳ばらいをしておもむろに口を開いた。
「家の屋敷の中では誰も知らない秘密なので、他言は控えて頂きたいのですが……旦那様は少々特殊な思考の持ち主でして。兼ねてからあのケーキ屋のパティシエのことはお気に入りでございました。が、一向に相手にはされず」
「ちょ、ちょっと待って下さい。それって」
「愛に性別は関係ありませんからね。旦那様はさぞ苦しんでおられる事でしょう。そこで……交換条件と言ってはなんですが、あのパティシエを説得して頂きたいのです」
俺は目を剥いた。説得って言ったって、俺のモンブランの為に男に男を好きになってくれ、と言うのも余りにも無茶な話だと思うのだが。
「はあ」
「あなたが説得に成功した際には、こちらも条件を飲みましょう」