誰が為ぞ-1
私は誰のために此処にいるのか。
山々に囲まれた山間部に位置するこの村は、冬期になると毎度の事ながら大雪が降る。
辺境と言われるこの村に通じる一本道は自然の摂理には余りに弱く、大雪が降れば一晩であっさりと埋まってしまう。この村の唯一の外界への入り口はとても脆い。
「そう言えばお父さん、お隣の竹下さん明日にでも隣の市へ引っ越すんだって」
春を待つ植物は根雪の下で春の日差しが雪を溶かしてくれるのをじっと待てるけれど、人間の脆い心では耐えきれなくて、春が来る頃には毎年村の住人は減っていく。
「早くしないと本格的な冬になって出れなくなっちゃうから、バタバタの引っ越しみたい」
竹下さんは三世代同居で隣の家に住んでいたけれど、最期まで此処にいたいと言っていたお婆さんが亡くなってから四十九日。
学び舎の無いこの村から子供の学校の為にと遽しくも出て行くことになった。
「寂しくなっちゃうね」
耐寒の為に頑丈に造られた家は、孤城に閉じ込められているような感覚に陥ることがある。
雪が侵入しないように二重に造られた扉は、誰の侵入をも許さない強固な扉に見える時がある。
「あーあ、とうとうこの村で一番若いのは私になっちゃった」
ストーブの上のヤカンがけたたましい音で沸騰を告げる。部屋に響くのは私の声とヤカンの音。もう一人の住人は決して唇から言葉を紡がない。
いくら声を掛けたって返事がないことはとっくの昔に理解していた。
父と暮らして、五度目の冬が始まろうとしている。
――――
『ねぇお願いがあるの。お父さんとお母さんの為に此処に残ってくれないかしら?』
五年前、母はそう言って唇を噤んだ。悪いと思っているのよ?とでも言いたそうに。
『お父さんが働けないから、お母さんが働くしかないじゃない?』
今までだって働いてなんていなかったじゃない、そんな事を言いたげな私の表情を察したらしく母は取り繕うように続けた。
『今まではね、お父さんの保険金とかお祖父ちゃんの遺産があったから生活には困らなかったけど、今後が不安でしょう?』
母の唇の真っ赤なルージュが嫌に目に残る。
『だから私が出稼ぎに出るわ、隣の市で良い仕事を紹介して貰えそうなの。だけどお父さんが心配でしょう?だから、ね?』
要は自分は出て行くから私には残ってくれ、と。
母があのルージュをつけるのは何度目になるだろう、私は視界の端で母を捉えながらもそんな事を考えていた。
真っ赤な唇をした母は私の知らない雰囲気を纏っている。「母」でも「妻」でもない、当時は分からなかったけれど今ならなんとなく分かる気がする。
あの日、母が纏っていたのは「女」の雰囲気だ。