誰が為ぞ-5
ザク、ザク
さっき吹雪始めたばかりなのに足音は雪を踏みしめる音に変わる。前へ前へ、早く行かなくちゃ。
早く?早く行かなければどうなる?
父が死ぬ
あのろくでもない母のもとへ行く
直ぐに独り立ちすれば良い
ワタシハワタシノタメニイキテイケル
嫌な考えばかりが、頭の中をグルグルと巡る。
風が頬に打ちつける、冷たさを孕んだ風には痛みしか感じない。
「私は誰のために此処にいるのか」
叩きつけるような雪の音が私の呟きを消し去った。
気がつくと私は家に戻っていた。
帰り道の記憶もなければ、医者を呼んだ記憶もない。
私は深呼吸をして、そこでやっと私は逃げることにしたのだとようやく気がついた。
「逃げる」とは言っても、逃げる場所すらなくて結局は家に帰ることしか出来なかった。部屋には依然変わらない状態の父、呆然と立ち竦むことしか出来ない。
「……こっち……へ……きなさ……い」
蚊の鳴くような声とはこのことかもしれない。生気の枯渇したような、皺枯れた声が聞こえた。
声が聞こえた方向つまりは父がいる方向を見やる。
未だに父の声なのか理解出来ずにいる私に父はなおも肯定するように手を小さく振った。
来なさい
父の手は震えながらも、そう伝えた。
正直、怖かった。
何年間も言葉を発していない父が喋ったのが怖いのか、今にも父の姿が怖いのかそれは分からなかったけれど恐怖の感情が私を支配する。心臓の音がとても煩い。
ゆっくりとまるで固まったような手足を動かす。ようやく父の元へ行けたのは通常の倍以上の時間が経ってからだった。
父は私の姿を認めると、すっかり細くなった腕を伸ばした。
「……あり……が……とう」
父の掌が私の頭を撫でた。
私の記憶にある掌とは違う。一回りも二回りも小さくなった、皺の刻まれた掌。
けれどとても暖かい。
それだけは何も変わらなかった。
「うっ……うっうう……お父さん……ごめんなさいごめんなさい」
涙が溢れ出した。
人間とは浅ましい生き物だな、と思った。逃げようと決心した途端に涙と思い出が溢れ出す。
入学式の日、他の子供と差別はしないと言い張りながら、式典の最中で平然と私に手を振り続けた父、それが嬉しい様で恥ずかしい様で縮こまるしか出来なかった私。
初めて泳いだ日、父が見守る中恐々ながらも川に浸かってあっさりと溺れて、父の背中に一日中しがみついた日。
夕日が落ちた初秋の山の中、怖くて足がすくんだ私をいつも一番に見つけてくれた。
大きな掌で撫でられたくて、些細な手伝いですら報告していた事。
私は父が好きだった、大好きだった。
だから私にはこの村に残るという選択肢しかなかった。