アン・ロジック-2
「理子花、これはどういう...」
先生は言い終わる前に、胃の中身を玄関へとぶちまけた。いい大人が地面に這いつくばり、嗚咽を漏らしている。そんな姿を理子花は、特別な感情もない瞳で見つめていた。
「先生、お母さんとお父さんは眠っているわ」
「理子花。お前、お前がやったのか?」
胃の中を全て戻し、空っぽになってようや吐き気が止まったのか、先生は力の抜けた声で理子花へと聞く。
「あーあ、玄関汚れちゃったね」
家の中のもの全てが普通で、嘔吐したソレこそが一大事件だというような雰囲気を持っていた。
先生はもう一度聞いた。今度は、腹に力が入ったのか、少しだけ力んでいる。
「あれはね、私が全てやったわけじゃないわ」
「じゃあ、なんで!」
「お父さんとお母さんがね、死にたいって言うのよ。そう言ったの。だから理子花も来いって。でもね、私は、死にたいわけじゃないのよ? お父さんは言ったわ。『リストカットしてたくせに、死にたくないわけないじゃないか!』ってね。私が拒むと『いつもどおり』私をお仕置きしてきたわ」
そう言うと、理子花は自らの肌をさらけ出し、肩や腕に入った裂傷を先生へと見せた。
「先生が思っているほど、私は鈍感じゃないのよ? 私は、お母さんとお父さんのおもちゃだって、ちゃんと解ってたわ。私の体は私だけの物なのに、お母さんとお父さんは、私から空の体だけを抜き取って、いつも遊んでいたわ。私の心はここにあるのにね。だからリストカットをしたの。あなた達のおもちゃじゃないって、解ってもらうためにね。結果は、無言で殴られたわ。今 までの中で一番酷くて、一番幸せな瞬間だったの。ふふ、だって、お母さんとお父さんが悲しんでいたんだもの。きっと自分たちだけのおもちゃじゃないって気づいたのよ! だから、私はリスカを続けたわ。私の体は私だけのものなんだもの。だけど、ある日余計なことをした人がいたの。ねぇ、仲川先生」
呼ばれた男の肩がビクンと激しく揺れた。この状況で、大人と子供がまるっきり入れ替わったかのように、男の体が小さく縮こまる。少女の揺れる瞳が、色もなく男へと向けられ続けている。
「先生が私のリスカに気づかなければ、こんなふうにならなかったわ。先生、親と面談してすぐに児童相談所へ駆け込んでしまうんですもの。来月には両親との別居を告げる勧告書が、ちゃんと届いていてわ。お母さんとお父さん。すごく怒っていたよ? 『俺達から俺達だけの物を奪うのか!』ってね。フフフ、あの時の怒りっぷりは先生にも見せたかったわ。何たって、家の中の全てが、一夜にして割れて砕けて、裂かれていたんだもの」
本当に楽しいことがあったかのように、理子花は先生に微笑みかける。
「いよいよ、お母さんもお父さんも困り果てて、奪われるくらいなら、全て奪ってあげると言ったのよ。台所にあった包丁を持ち出して、お父さんはまずお母さんを壊したの。次に私へと向ってきた。私は嫌で、自分の部屋へと逃げようとしたけど、階段で捕まってしまったわ。その時に、この傷がついたの。私があまりにも暴れる ものだから、お父さんはバランスを崩して階段から落ちたわ。アレはその時に割れたのね」
理子花は目線をアレにむけた。目線の先には息を引き取った父親の無残な姿があった。
頭を階段の角に打ち付け、スイカの如く割れ中身をぶちまけた死体が。
理子花の向ける視線は、いつものお父さんを見ている眼差しと、全く同じだ。なんの濁りもなく、ただ暗く光が動くのみ。
「私を束縛するものはもう何もないわ。私はね、もう誰のおもちゃでもないの。私は、自由になったのよ。これから一人で生きていかなくちゃいけないから、大変だとは思うけど、それよりも今、幸せが勝っているから大丈夫」
「...子供は一人で生きられない。だけどみんなしっかりと守ってくれる」
「あら、先生何を言いたいのかしら?」
「孤児院もあるし、親戚をあたるって手もある」
「私に一人で生きるな、と言いたいのかしら」
「子供が一人で生きるのに、まず金銭的な問題があって...」
「先生、私の邪魔をするのかしら?」
「今、お前は精神的にまいってる状態だ。ずっと、親から体罰を受けてきたんだもんな。だから」
「何も参ってないわ。今、私の精神状態は最高よ? とっても幸せなの。だって、ずっと取り上げられていた私のおもちゃが、私の元へ戻ってきたのですもの。それを、先生は邪魔しようって言うのかしら」
「う...」
先生が呻いたのは、理子花の言葉のせいじゃない。