シフォンケーキの幸せを-1
「悠司?」
名を呼ばれ振り向くと、そこには母がいた。
「やっぱり悠司だ。久しぶりね」
人混みの合間を縫って、小走りで駆け寄ってくる。
僕は黙って、その人のつまさきから頭のてっぺんまでを眺めてみた。
セミロングの茶髪が乗った顔には幾分か老いを感じさせる皺が増えており、記憶の中の母とは多少の違いがあった。
けれど、薄手のカーディガンに覆われた華奢な体や左目の下の小さな泣きぼくろなど、細部に面影を感じることはできた。
何より、その柔和な微笑みは間違いなく母のものだった。
「あぁ」
九年ぶりに交した最初の言葉が、あぁ。
僕らしいと言えば僕らしいのだが、社会人三年目だということを考えると何だか情けなく思ってしまう。
そんな僕の心情など知る由もなく、目の前に現れた母は微笑みかけてくる。
「元気そうね」
「まぁね」
母さんも、と言いかけその言葉を呑み込んだ。
僕は戸惑っていた。そして、その戸惑いは少しの沈黙を生むことに成功した。それだけだった。
休日だからか人通りはとても多い。手をつないで歩くカップル、楽しそうに駆ける子供達、スポーツバッグを抱えた部活帰りの学生。
普段、僕が繁華街を通る時間帯はサラリーマンが多いため、人の層の変化に多少の違和感を覚えた。
どちらにしても人で賑わう繁華街は苦手である。
「母さんも」
沈黙の間を繕うように、自然と唇が言葉を紡ぐ。
「母さんも、元気そうだね」
やっと吐き出されたその言葉は白昼の繁華街の喧騒にかき消された。
聞こえたかどうかはわからない。ただ、母はにこにこと笑っていた。
沈黙の上に喧騒を重ね、そしてまた沈黙が生まれる。
九年ぶりの再会に相応しい会話とはどのようなものだろうか?そもそも、僕と母はどのような会話をしていただろう?そんなことさえ忘れてしまう程に、九年という歳月は長かった。高校生だった僕は大学を卒業し社会人になっているのだ。
「今、時間あるかしら?」
栗色の瞳を覗かせて、そう尋ねてきた。
僕は左袖をめくりアニエス・ベーの腕時計の文字盤に目を落とす。トカゲのロゴの上の短針が3の字を指していた。
「急ぎの用事がないなら、少しお話しない?」
「うん、大丈夫だよ」
6時までには帰る、と美里に伝えてあった。
元よりすぐに済む用事しかなかったので時間は十分にある。
隣に並んで歩く母。写真で見ていた平面の母と違い、そこにいるのは確かに立体の母だ。
疲れているのかもしれない。軽くこめかみを抑え、目を閉じる。
「どうしたの?」
開ける視界に、やはり母はいた。
「何でもないよ」
僕は笑って歩きだした。
まだ、戸惑いはある。
◇
行きつけの店を通り過ぎ、一度も入ったことのないカフェを選んだ。
僕はコーヒーを、母さんはメープル・ラテを頼んだ。
「相変わらず甘党なんだね」
こくん、と頷く。
「甘い物って幸せのかたまりみたいじゃない?なんだか、幸せが口いっぱいに広がる感じがして」
目をきらきらと輝かせ、両手を大袈裟に広げる。口いっぱい、のわかりやすいボディ・ランゲージだ。
母さんは昔から年を感じさせない人だった。むしろ、どこか素朴で可愛らしい少女のような雰囲気を持っていた。容姿がとびきりの美人というわけではないけれど、整った顔立ちと穏やかな物腰が気品の良さを漂わせていた。