シフォンケーキの幸せを-4
「…悠司」
頬を温かな手に挟まれる。真っ直ぐな瞳に、泣きそうな僕の顔が映っていた。
「私はいつでも悠司と美里の側にいるからね。それだけは忘れないでね」
それから母さんは微笑み、くるりと背を向けた。
光に呑まれて消えるように、その姿が遠のいていく。
僕は立ち尽くしていた。
オレンジ色の世界に浮かぶ母さんの姿は段々と小さくなり、そして、幻のように、消えた。
駄目だ。肝心なことを伝えていない。震える足を叩き、駆けた。
僕は花屋に寄って、一輪の花を買う。
夕陽が伸びていく。オレンジ色を敷いた道を僕はひたすらに走った。
美里が母さんのことをどう思っているかは、僕が伝えるより自分の目で見てほしい。
オレンジ色の視界が滲んでいく。目頭が熱い。ふと、昔の母さんの日記を思い出してしまったのだ。
わんぱくな悠ちゃんはいつも泥だらけで帰ってきて
にっこり笑ってサッカーのことをママに教えてくれるの
でもね、悠ちゃん
悠ちゃんが初めて蹴ったのは、何だと思う?
それはね
ママのお腹なのよ?
お腹を蹴られる度に、きっと元気な男の子だろう、ってパパもすごく喜んでたの
悠ちゃんは私達の宝物。いるだけで幸せがいっぱいなの
悠ちゃん
ママの子供に生まれてきてくれてありがとう
◇
ドアを開けると甘い匂いが香った。
乱雑に置かれた美里の靴を直し、暖かい廊下を歩く。
リビングの食卓には、毎年と同じように束になったカーネーションが置かれていた。僕は買ってきたカーネーションをそこに添えると、食卓の真ん中にある幸せの塊を眺めた。
それは、ふんわりとした幸せをいっぱいに包んだシフォンケーキだ。
―――母さん、見てる?美里は母さんのこと、とっくに許してるんだよ。じゃなきゃ毎年の母の日に、こんなに大きなシフォンケーキを焼いたりしないって。
「ただいま」
大きな声でそう言うと、エプロン姿の美里がキッチンから顔を出した。
雑踏の中で声をかけられた時、戸惑いはあったものの恐れはなかった。今日は母の日だ。こんな日ぐらい、あの母さんがふらっと帰ってきたっておかしくはない。
四年前に、この世を去ったはずの母。病気だったらしい。九年前に祖母の実家に戻った母は、その後、病に冒されたのだ。
でも、何だっていい。幻でも幽霊でも、あれは母さんだった。僕は母さんに会ったのだ。
「美里、あのさ―――」
毎年の母の日に、我が家の食卓はあの日曜の昼と同じ匂いに包まれる。
シフォンケーキの甘い甘い、幸せな匂いだ。