シフォンケーキの幸せを-2
毎週の日曜にはクッキーやマフィンを作ってくれていた。なかでもシフォンケーキは得意だったらしく、母の作ったものより美味いものを今まで食べたことがない。
近くの席の女の子が食べているシナモンロールの香りが、そんなことを思い出させた。
「いろんなお菓子作ってたよね」
「あら、よく覚えてるわね。全然食べてくれなかったのに」
口を尖らせ呟かれた言葉に、僕は苦笑してごまかすしかなかった。
小学生の頃、友達にお菓子のことを話したらマザコンだと冷やかされた。以来、僕は恥ずかしくなってお菓子を食べなくなったのだ。
「甘いものが元から好きじゃないんだよ。コーヒーゼリーみたいなのは好きだけど」
「あんな真っ黒で苦いもの、世界から消えちゃえばいいんだわ」
そう言って、僕の飲んでるコーヒーを忌々しそうに睨む。
穏和な母でも憎んでいるものがあった。それは苦いものと辛いものだ。
「キムチは食べられるようになった?」
「砂糖をまぶせばね」
「コーヒーは?」
「泥水」
「そういえば味噌汁が甘い時があったけど、あれって絶対に砂糖を入れてたよね」
「隠し味よ」
「いや、隠れてないから」
どうやら味覚は相変わらずのようだ。
でも料理が下手な訳ではない。むしろ、上手いほうだ。
妹の美里と二人で暮らすようになってから、僕は料理をする機会が多くなった。外食をして済ませば簡単なのだが常にそうしていられるほど裕福ではなかったし、お互いの時間が合うことも少なかった。一人で食べに行くのはとても虚しい。それに比べて自分で作れば金もかからないし、作り置きも出来る。
しかし、なかなかどうしてうまくいかない。母さんの味にはほど遠いのだ。
それを話すと笑われてしまった。
「母さんに勝とうだなんて十年早いわよ」
店内にある観葉植物が陽光をいっぱいに浴びて光る。葉の緑の眩しさに、春の終わりと初夏の始まりを知った。
「じゃあ、家事はほとんど悠司が?」
「まぁね。おかげでロールキャベツなんかも作れるようになったよ。料理の腕は僕の方が断然、上だと思う」
「どっちが女の子かわからないわね」
実際、美里が料理を作ることなんて滅多にない。
「小さい頃も食器洗いはいつも悠司がやってたもんね。美里はすぐ外に遊びに行っちゃって」
「今でも変わらないよ。サークル活動やゼミに追われて、家には寝に帰ってくるだけだね」
「あの子らしいわ」
笑っていたが、どこかそれはぎこちない笑みだった。
確執は、残っていた。
でも母さんは知らない。年に一度、美里が必ずキッチンに立つことを。
「母さん、美里は…」
ふと、強い視線を感じ喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。向かいに座っているカップルが訝げな目でこちらを見ていたのだ。ちらりと一瞥すると、慌てて目を反らされる。当たり前だ。僕だって同じ立場ならそうする。だからわざわざ普段来ない場所を選んだのだから。
「悠司?」
急に訪れた沈黙に、母さんは僕の瞳を覗き込んだ。コーヒーの氷が溶け、カランとひとつ音が鳴った。
「なんでもないよ」
僕はイスに背を預け天井を仰いだ。淡い橙の蛍光灯がいくつも点在している。
「似てきたわね」
「え?」
呟かれた一言に、視線を戻す。
「あの人の若い頃に」
表情こそ変わらなかったが声のトーンが少し下がった気がした。
あの人とは僕の父親、つまりは母の夫のことだ。