夏の始まり、夏の終わり(前編)-5
「小銭がないなあ…」
私は、そんな男の姿を眺めながら思った。
ちゃんとした身なりからして、都会から来た人間だろう。
そんな男は、普段小銭だけで買い物することなど無いのかもしれない。
男は申し訳なさそうに千円札を私に手渡した。
「これ、おつりです」
私は素早くレジを開け、男につり銭を渡した。
私は、少しだけ男の素性に興味を持った。
こんな田舎町に何の用があるのだろう。
「この辺の人…じゃないですよね?」
私は言った。
「ええ、仕事で東京から来ました」
東京…
久しく聞いたことのなかったその言葉を耳にしたとたん…
私の心は、過去に強引に引き戻された。
「こっちは涼しいかと思っていたのですが、暑いですね」
「ええ、冬は寒いくせに。夏は東京と似たようなものです」
私は、たいして何も考えずに言葉を返した。
「東京に、いらっしゃったんですか?」
「え?」
「ああ、東京と似たようなものだ…とおっしゃっていたので」
丁寧でゆっくりとした言葉と、低い声。
聞けば、男はこの町に来るのは今日が初めてなのだという。
隣の市にある病院を仕事で訪ねてきたとのことだった。