秘密屋-1
駅を出て賑やかな桜並木の通りを行く。舞い散る花弁を一瞥し歩いていく。こんなにも美しい花々が空に映えている午後なのに。今の私には天を見上げることすら許されない。無論、この人混みのせい。一瞬でも気を緩めれば忽ち誰かとぶつかってしまう。そう、ほら、この通り。重々承知して進んでいた筈なのに。 小説書きという職業柄、宵っ張り故に予期していた事が起きてしまう。職業の所為にしても何の意味も無い。とにかく、眠気に気をやられ、とうとう誰かと正面衝突してしまったのだ。
「どうも……済みません。」
慌てて立ち上がり謝罪した私。地面に転がった眼鏡を掛け直し、その「誰か」が落とした白い紙袋を拾う。豚のマークが入った白い紙袋。底はほんのり熱を持っている。微かに油の匂いを放ってもいる。食べ物が入っているのだろうか。そんな紙袋のそばで例の「誰か」がしゃがみこんでいる。女だ。膝丈スカートの スーツを着込んでいる。そういえば今は昼時。大方、昼休みを利用してここまで買い物に来たのだろう。
「いいえ、私の方こそごめんなさい。急いでいたもので。」
ようやく立ち上がったその女がスーツに付着した砂埃を払いながら私に言った。確かに私に言っていたと思うのだが、目線は何故か私の肩越しにある。その表情は険しい。小説書きという職業柄、好奇心旺盛なもので。気になって彼女の視線を追ってみる。そこに居たのは女子高生に囲まれている背の高い美青年。彼 もまた背広姿だ。
――それにしても。こんな時間にどうして女子高生が居るのか。
怪訝な表情を浮かべていた私の耳に「折角食べさせてあげようと思ったのに」という憮然とした声が掠める。声の主、つまり件の女の方へ向き直る。あら? 満面に笑みを浮かべている。力の籠もった笑みに見える。泣く子も黙る何とやら、とは、まさにこのことであろうか。思わず気後れした私は、視線を足下へ急 降下。急降下させてから、これは些か失礼な行為であるという事に気付き慌てて上昇。不自然だっただろうか、と身の上を案ずる。
しかし、私の深憂よりかは先の仕草を気にも留めていないらしい女。そのままの固い笑顔で唇を動かして言葉を発す。
「もしよろしかったらその唐揚げ差し上げます。もう要らなくなったので。ここの唐揚げ美味しいンですよ。人気店だから直ぐに売り切れちゃうんです。それじゃあどうも、済みませんでした。はい、本当に、どうも、さようなら。」
恐らくこの袋の中が唐揚げなのだろう。ぼんやり、そう考える。私の礼を期待する風もなく、待つ風もなく彼女は足早に離れていく。何も言えずに彼女の後ろ姿を見送った。
背筋が伸び、隙のない歩き方。鬼を目の前にしたような恐怖心から開放された私が安堵の溜息をついて間もなく、先刻女子高生に囲まれていた美青年が直ぐ横を駆けていった。鬼の後ろ姿に追いついたその青年がその鬼の平手打ちを食らったのは言わずもがな。しかとこの目で見ていたのだ。そして悟った。……女とは、 見えるものを優先し解釈していく危険な生き物である。
「唐揚げ完売しました!」
背後から声が響く。唐揚げ店販売員の声だ。それを聞いた人混みが一気に四方へ散っていく。後塵を拝してその波に倣い、私もマンションの方へ足を踏み出す。そこで、漸く茶葉を切らしていたことを思い出したのだ。しまった! スーパーに寄らないといけない。握っていた紙袋を腕に抱き、桜舞う春の道を行く。 途中、道路の端に猫の死体を見つけた。ひしゃげたそいつを横目に見る。それでも止まる事はなく。ひたすら先へと急いだ。