人を殺しました-1
悪くない寝心地の寝台の上、俺は女を両サイドに全裸で横になっていた。居心地がいい筈である。とにかく俺は両サイドの緩やかな線を撫でながら、夢を見たり、心地好い苛立ちに似た感情に脳を委ねたり、好き勝手に息していた。
「……起きろ新人。」
目を開ければ真闇。煙草の所為で視界は曇っているが、青い闇がそこにあることを意識的にも無意識的にも、直接的に知ることができた。そして寝起きの枷が、俺の全身を括っていく。
「交代だ。邪魔だ、早く退け。」
ドスの効いた嗄れ声が俺にそう言った。はいはい。おとなしく退く。俺の服は鬱陶しい位に、秋毫の乱れもなく肌に張り付いている。そして目の前の声は音を立ててそんな俺の温もりがまだ残っているであろう寝台の中へと潜り込んだ。一歩踏み出して気づく。俺は動いて確かに感じた股間の違和感と汗に眉をひそめた。 時と隔離された床の上、裸足で便所まで歩きながら、寝台に染みが出来ていないかを心配していたのだが、やがてそんな心配をしている自分が無意味に思え来た。便器に男への配慮だとか、羞恥だとか、自尊心のことなど話しても流すことすら出来ないのだから。
用を足し、俺は誰もいないロッカールームで適当に着替えると、煙草を一本吸いながら会員カードを確認した。病的な顔色の俺が居る。今にも咆哮しそうな痛々しい表情でこちらを睨み付けている。いつの写真かは知らないが、少なくとも今の俺のものではない。時が殺した俺の顔。俺もやがては時に殺される。そして俺 は共犯者として時に加勢し、逆らう。否、逆らっている。
会員カードを其処に差し入れればキーが開く仕組みになっている。俺は只機械的に動きながらさっきの夢の中の感触を思い出そうとして舌打ちした。どうしても、思い出せなかったのだった。
横開きにドアが開く。ほんの6畳ほどの部屋の中央に、灰色のディスクが置かれている。黴びた光が倦気な顔の電球から下りてくる。それにこの部屋は支配されている。早く地に帰りたいんだと訴えている。真っ直ぐに光を落としていた。
さて、ディスクには半開きになっている使い込まれた青いファイルとアルミの珈琲カップが置かれている。俺はその珈琲カップに話しかけるつもりで深い溜め息の後、訥々と声を紡いだ。
「……居心地はどうだい、」
「サイアク、」
光に見事倣った答えに思わず苦笑が漏れる。俺は胸の衣嚢から残り僅かになとた煙草一本を取り出しくわえて火を点けた。少し落ち着く。
「君は何をやっちゃったの、」
彼は眉間に皺を作って冷たい壁に向かって、判っているくせに、と唇だけで言った。其のアイロニカルな動作が彼の精神の何処からもたらされるものなのか、俺は未だに知らない。
「……奉仕作業だよ、」
「は、」
真顔で意味不明なことを言う少年を,俺は間の抜けた顔で眺める。そんなすげない態度に、俺は怒りさえも起こせない。そんな俺に嘲笑を垂れながら、彼は言葉を付け足す。
「……奉仕してやったんだよ。世の為人の為ってヤツ。」
「矛盾していないか、それ」
「当たり前だ。全ては矛盾でなりたっているんだから、此の社会は。」
だから彼は母親を殺したと言う。
彼の起こした事件は大手新聞会社の一面を絢爛に飾り、混戦するメディア戦争の御馳走として派手に報道された。更には精神鑑定の医師やら、弁護士やら、教育委員会やらが巷間をもり立て件のことは某重大事件という塩梅に半ば美しく半ば大袈裟に騒がれ、加えて一部狂乱した若者達から伝説と称された。
当時の彼は10歳、少年だ。私立の中でも指折りの名門学校に通い、そこで首席をものにしていた、何れは社会を変えるであろうと謳われる程の人物であった。そいつが世界の裏に潜む誠の悪とやらの慟哭を覚醒させてしまった。以来、大人と子供のコンフリクトは途絶えない。確かに彼は社会を変えたのだった。