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「詩をつむぐ人」
【少年/少女 恋愛小説】

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「詩をつむぐ人」-1

「好きだったんだ、ずっと」

 遠野がその日、私をピアノレッスン室に呼び出した。

 遠野圭吾はこの学校で出会った私の唯一無二の友人だ。俗に言うお祭り男で、部活命のサッカー少年だった。
 私は彼とは対象的に、孤独主義者の傾向がある。
 彼と出会ったのは一年生の入学式。知り合ったのはピアノレッスン室。ここからは遠野がいるサッカーグラウンドがよく見えた。
 真夏の白い強い陽射しが、窓から入り込んでくる。ついさっき入れた冷房もあまり役には立たなくて、浮き出て来た汗が背筋を滑り落ちて行った。

 遠野は深刻な、今にも泣きだしそうな顔をしていた。この顔を見るのは、二度目だな、と太陽の熱で溶けていきそうな頭の中で私は呟いた。
 遠野は話を続ける。

「最後に一言言っておきかったんだ」

 遠野は今日の終業式を最後に転校する。オジさんが九月から大阪勤務になるらしいと聞いた。
 遠野は、私に転校の事実を伝えた。あの時の、遠野の悔しそうな顔が忘れられない。
 遠野は、きつく拳を握り締め、身を震わせて、悲しみや怒りで混沌とした感情に飲み込まれないように必死に耐えていた。

 私は遠野のことが好きだった。きっと最後のチャンスなんだろう。明日になったら、遠野はこの町から姿を消してしまう。
 でも私は言うことができなかった。私の願いは、決して叶わない。私は真実を知っていたから。

「初めて本気で好きになった人だったんだ……」

 遠野の目からはいつしか涙が溢れていた。
 遠野が好きになったのは私じゃなくて、落合さんだ。
 私は立ち上がりカーテンを引くと、いつもの様に椅子を自分に丁度いい高さに調節し、いつもよりゆっくりと、自分の行動を意識するように座った。目の前にある、白と黒で出来ているモノトーンの世界をそっと開ける。

 記憶を巡らし、私は落合さんの姿を頭の中に思い描いていた。放送部の部長で、明るい笑顔と元気のある声。遠野と同じ様に人を惹き付ける魅力を持った人だった。
 遠野が好きになるのも判る気がする。
 それでも、やっぱり、好きのベクトルが向き合ってなかっただけで、どうしてこんなに切ないんだろう。
 私も遠野みたいに、自分の気持ちに正直になることができれば、この情けなさや苛立ちから解放されるのだろうか。
 私は真っ白な鍵盤をぽーんと一つ叩いた。使い慣れたピアノ。いつもと同じ音がする。

「遠野、何か弾いてあげるよ」

 私は椅子に座りながら、明るく言った。
 私の言葉はいつも無力だった。人の心の中に決して留まらない。上っ面だけで、とても軽い。誰かのためになる言葉を望んでいるわけでは、ないけれど……。せめて遠野の傷が、早く癒えるようにと願うとき、私に出来ることはたった一つだ。
 遠野は涙を拭いて私を見た。冷房はすっかり効き始めて来ており、汗が冷えて肌寒いくらいになっていた。

「別れの曲でも弾こうか?」

 私がくすくすと笑いながら言うと、遠野は眉を潜めた。

「ベタだよ。じゃなくて、こないだコンクールで弾いてた……」
「ベートーベン?」
「だった? …それが、いいな」

 遠野は、鼻を鳴らしながら、呟くように言った。

 あのコンクールで弾いた曲は、私にとって思い入れの深い曲になった。
 感情がほとんど無かった私のピアノ。それが全くの別物に、息を吹き込まれたように動き出した。ピアノソナタ《悲壮》。私のスタートラインになった。
 あの日、私の体はピアノのためだけにあった。私の心は私の中で鳴り響く音楽のためだけにあった。そして私は、自分の中にいる理解の出来ない自分と始めて向かい合えた。嫌いな自分を認めることが出来るようになった。
 私にとってその曲は特別になった。遠野がその演奏を覚えていてくれるんだな、と思ったら少し嬉しくなった。

 でも、違う。遠野にあげるのは、自分のための曲じゃなくて、遠野のための曲がいい…。
 私はゆっくり頭を振った。


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