恋の奴隷【番外編】―心の音I-3
「ナッチー!」
後ろから肩を叩かれて、私はびくりと身体を震わせてしまう。朝からずっとこんな調子だ。クラスメートからナッチーと呼ばれる度に、心臓が飛び出してしまうくらい反応してしまう。声を掛けてきたクラスメートと他愛のない会話を幾度か交わし、ちらりと教室の後方に目をやった。入口に近い列の一番後ろの席。普段はその席を中心に、ひとり、またひとりと人が集まって、教室は心地良いざわめきに包まれる。しかし、昼休みだというのに今日はぽつりぽつりと人がいるくらいで、私の視線の先にある席にその姿はない。
「葵君、今日休みなのかなぁ?」
私の視線に気が付いたのか、クラスメートも私の見ている方に目をやって、そう尋ねてきた。
「…さぁ」
心当たりはあるのだけれど、私はその子に悟られないように平然を装った。きっと、ノロも私に会いたくないのだろう。そう思うとなんだか胸がチクリと痛んだ。
すると、教室の扉が前触れもなく開かれて、そこからひょっこりと顔を出した人物に、私はハッと息を飲んだ。
「おはよーっす!」
「椎名!おはようじゃねぇよ!もう昼だぜ」
ノロは教室の入口辺りで、男女数人に囲まれながらケラケラと笑い声を上げている。思っていたより元気そうで、私はほっと胸を撫で下ろした。そんな彼の様子を遠巻きに眺めていると、不意に目が合って私はごくりと喉を震わせ、視線をそらした。
「ナッチー…」
ノロが私の名前を呼んだような気がする。だって、その時には、すでに駆け足で教室を飛び出してしまっていたのだから。
―に、逃げちゃった…どうしよう……
私は焦燥感を断ち切るように、全速力で階段を駆け上がって、息を切らせながら、屋上のフェンスにそのまま身体を預けた。勢い良く出て行ったのは良いものの、すでに授業が始まっている教室にわざわざ注目を浴びてまで戻る気がしなくて。今日は5限までだから、残す授業はあと1コマ。私は授業開始を知らせるチャイムを聞き流して、暫くこのままで時間を過ごすことにした。
雲ひとつなく晴れ渡った青空。暖かな陽の光が私の眠気を誘う。小春日和とは今日のような天気を言うのだろう。なんて呑気なことを思いながら、大きく伸びをして身体を地面に倒そうとしたその時だった。
「げっ!」
思わず漏れた言葉に、慌てて口を押さえたものの、その声に気付いた相手は驚いた顔一つせず、私をひたと見詰めている。
「なにしてんの」
「…は、葉月君こそ……」
私から数メートル離れた場所で、両腕を頭の後ろに組んで寝そべっていた葉月君は、顔だけこちらに向けて私を凝視している。そして、ゆらりと立ち上がると私の元までやってきて、すぐ隣に座った。
さらさらと風が彼の髪の毛を弄ぶ。瞳と同じその薄茶色の髪は、陽を浴びてキラキラと光を放っている。
「ねぇ。座れば」
「…え?あ、うん…」
あまりにも綺麗な横顔に、つい目を奪われて立ち尽くしている私に、葉月君は地面を指差して座るように促した。無表情なのに、どこか威圧的なその視線に、私はつい頷いてしまった。
「葵は」
「え?」
「葵、ガッコ来てんの」
「あ、うん…ついさっき来たみたい」
「ふーん」
興味なさそうに素っ気なく返事する葉月君。一瞬、彼の表情が曇ったようにも見えたけれど、気のせいだろうか。ちろりと横目で見やると、やはりいつものように涼しい顔をして、私の隣に寄り添うように座っている。肩がぶつかるくらい、その距離は近い。腰を浮かして少しずつ横にずれても、ぴったりと身を寄せてついて来るわけで。昨晩のことも相俟って、さっきから私の心臓は飛び出してしまいそうなくらい暴れ回っている。