無夢-1
それは、いつからだったろうか。
思い出そうとすれば、ぐるぐるといつもの眩暈が襲う。自然とハンドルを握る腕に力がこもり、耐え切れず私は車を道の脇に寄せた。エンジンを切り時計に目を遣ると、短針は12の文字を指そうとしている。
木曜の深夜、仕事を終えた闇のなか。
深い、溜息をつく。
負の空気が充満しているような車内から逃げるように、私は外に出た。
黒の世界は何人をも受け入れまいと、静かにそこに存在していて。
まるで私は、居所のない野良猫のように身震いをする。
それは、いつからだろうか。
また逃げるように、先ほどの問いに思念を向ける。
私はもう、何年も熟睡をしていない。
浅い眠りのなかで、けれどもう何年も夢を見ていない。
だから疲れ果てている。数時間の睡眠は、翌日への僅かな活力を補充するだけだった。
磨耗しきった精神と、
失いかけている正心と。
いつまでもつのだろうか。逆算しかけて、余りの無意味さに空を仰いだ。
秋空にたゆたう星たち。
その光を見上げて、私は深い溜息をつく。
車に戻り、キーを回す。響くエンジン音は、どこかの悲鳴に似ていた。
最後に泥のように眠ったのは、親父が珍しく饒舌な夜だった。お盆に実家に帰り、親父と、まだ元気に生きていた母さんと三人で飲み明かした、あの夜だ。まるで学生の仲間と話すような気軽さで家族と時間を共有したのは、思えばそれが最初で最後だったかもしれない。半年後には母さんが亡くなり、寡黙だった親父は更に口を堅くした。言葉が続かないのが嫌で、私は長いこと実家に顔を見せていない。
だから、つい先日、親父から連絡があったときは驚きを隠せなかった。
『話したいことがあるので、近いうちに来てほしい』
用件はそれだけで、話した内容もそれだけだった。けれど、それだけでも親父から話しかけてくること自体が珍しいことで、私は返事にまごついてしまった。
まぁ、話は脇道に逸れてしまったが、結論としてはやはり五年以上は熟睡をしていない、ということだ。
一日中眠っていたあの日、それでも夢は見なかった気がする。
――― あなた、ねぇ、あなた
誰かに呼ばれて、私は目を開けた。瞬間、じっとりとした熱気に気分が悪くなる。
「大丈夫?」
見慣れた両の目が、私を覗き込んでいる。
「あぁ、どうしたんだ、夕菜」
「随分とうなされていたから、心配で起こしちゃった」
首筋までぐっしょりと汗をかいている。気だるさが支配した体を、起こす。
「水、持ってくるね」
「あぁ、頼むよ」
ぱたぱたとスリッパの軽快なリズムを刻みながら、夕菜は寝室を後にする。時計に目を遣ると、布団に入ってから長針が一回りもしていないことに気付く。
うなされていた、らしい。
何に?
答えるべくもない。
私は夢を見ないのだ。
ならばきっと、この現実にうなされているのだろう。
目を閉じてさえ、それに怯えているのだろう。
「今の仕事、あなたに合ってないんじゃないの?」
夕菜はコップを手渡しながら、心配そうな表情を見せる。
「そうかもな。でも」大抵、仕事なんて合わないものさ。こちらから合わせるしかないんだよ、と言いかけてやめる。それこそただの弱音だ。
「明日は会社、休んだら?」
一日ぐらい休んだって、仕事の量は飽和状態であることには変わりない。渡された水を見つめて、考える。重要な会議も、来客の予定も無い。確かに、貯めては捨てる有給を取るタイミングではある。ユラユラとゆれる水面は、軽い眩暈を誘起させ、考えることをやめる。
ぐい、と一気にそれを飲み干して
「明日、親父に会いに行ってくるよ」
と言った。
あぁ、確かに私は、この現実にうなされている。
私たちの子供が産声を上げる、その前に。
穏やかな夢を見たい、と。
目を閉じて願う。ただ、願う。