無夢-4
「その女性は、いまは?」
「死んだよ」
あっさりと親父は言った。「体が弱い人だった。子に生を授け、母体は生を終えた」
――― それが彼女の最後の務め、だったのだろうさ
あっさりと親父は言った。けれど、乾いた声だった。抑揚の無い、乾いた声だった。まるで何年もかけて修得したような悲しい声だった。
「それからが大変だった。そもそも、私たちの関係は、向こう方の人たちには反対されていてね。私の両親は既に他界していたし、頼るものが何一つ無かった。大学を辞めたよ。彼女が唯一残した、その証を育てながら、幾多もの仕事を掛け持ちした」
それは、まるで濁流のような日々だったなぁ。
思い浮かべる。
男手ひとつで右も左も分からない青年が、ひとつの命を育てるということ。
きっと疲れ果てただろう。何度も諦めただろう。
どこか似ている、それはきっと今の私。
仕事に疲れ果て、現実に打ちのめされている私自身のような気がした。それでもそのときの親父は、もっともっとつらい。
添うべき者を亡くし、
沿うべき道を無くし、
幼き背広は、いったい何を思ったのだろうか。
想像だにしたくない。
「結局、無理だったんだ。数年もしないうちに体を壊してな、長期入院をせざるを得なかった。見かねた向こう方が、私たちの子供を引取っていった。『二度と顔を見せるな』という約束を置き土産に」
結局、全てを失ったという。
手にしていたやけに苦い、黒の波紋を見る。
失うのなら、
私は思う。
いずれ手から零れ落ちていくのなら、ソレを探すことに意味があるのだろうか。
「随分と自棄になったよ。人生で最も危うい期間だった。その時期に知り合い、励まし続けてくれたのが、母さんだった」
言って、親父は伏せてあった写真を立てた。
そこには三人で笑い合う、幸せな家族が写し出されていた。親父は、柔らかな笑みを浮かべた。それだけで、私は彼を責めることが出来なくなったことに気付く。
「もう子供を作るつもりは無かった。けれど、10年、母さんは待ってくれた。私の心の回復を」
そして私が生まれた。
――― 命を育むということは、とても大変なことだ。自分の半身として、それを見守ることが出来るのかい?
甦る親父の言葉は、果てしなく重く。
時代を超えて、再び私に問いかけられる。
あの時、僕は何て答えた?
いま、私は何と答える?
堪らず、ぐいっと黒を飲み干す。
「夢を見る。抱いていたのは、お前から、あの子供、マサミに変わる。けれど顔にはもやがかかり、しっかりとは見えない。マサミは言うんだ。『どうして私を生んだの』と、な」
そこで目が覚める。
そこで目が覚めちまうんだよ。
親父は繰り返した。
助けを請うように聞こえた。
助けを拒んでいるようにも聞こえた。
私は首を縦にも横にも振れず、ただ目を閉じるばかりだった。
ドク、ドク、と生まれ来る命の声が聞こえる。
この、悪夢のような現実のなかに。
その命を迎え入れることに、拭えない不安感があった。
帰り際、一番の疑問を親父に投げかけた。
「なぁ、親父、何で今なんだ?」
何で今、その話をしたんだ。寧ろ、打ち明ける必要すら無かったのではないか。
「さぁな。私にも分からん」
遅すぎたのかもしれない。
早すぎたのかもしれない。
ただ、今は、告げるタイミングを外しているような気がした。