無夢-3
「それは見てみたいものだな」
湯飲みを擦りながら呟いた。厳しかった親父も、すっかり隠居じみた仕草を見せる。
「だからあと六ヶ月さ。すぐにやかましい子供が駆け回ることになる」
「孫、かぁ。お前が父親とはな」
「あんたもおじいちゃんだ」
親父は、目で笑った。
そろそろ本題に入るとしよう。
「それで、何か用があったんじゃないのか?」
短刀直入に聞く。私も親父も、回りくどいのが嫌いだ。
夢を、
まるでそのときを待っていたかのように、滑らかに親父の口は動き始めた。
――― 夢を見るんだ
ギクリとする。
何も道理は無いのだけれど、何故か私は後ろめたい気がした。夢。その響きには、一種の恐怖感すら宿る。
「お前を抱きかかえる夢だ。まだ幼いお前を、高く、高く抱きかかえる夢だ」
親父は目を細めた。今も、その夢の中にいるのだろう。その夢の中に、私は入ることが出来ない。随分と昔に、入り口を見失ってしまった。
「その私の前を、一匹の魚が横切っていく。その姿を目で追いかける」
私は目を閉じる。きっとその尾は。
「ふと、視線を戻すと、抱きかかえている幼子はお前ではないことに気付く」
すぐに目を開ける。
親父は、何を言うつもりだ?
わざわざらしくない遠回り口調で、不穏な空気を漂わせて、親父は、何を言うつもりだ?
私は不意に、テーブルの真ん中に飾ってある母さんの写真を伏せた。
「お前には、姉がいる」
穏やかに包まれていた団欒は、一瞬にして凍りついた。
「何を言ってんだ・・・」
またいつもの眩暈がやってくる。それは一層の澱みを誘う。深い、不快、底のそこへ。
否定するように私は立ち上がり、狭い庭を眺めた。
「不倫か?」
勤めて冷静に、まだ冷静に、言葉を吐く。
「いや、それは違うな」
それよりも冷静に、親父は言う。その響きは、一筋縄ではいかない物語を彷彿とさせる。
「聞かせてもらおうか」
三十年。
私が生まれてから一度も語らなかった、親父の物語。
すっかりと冷めたお茶を下げて、濃い目のコーヒーを淹れる。
以前の親父では考えられないような、その仕草に、抱いていた厳格さを重ね合わせることは出来ない。
「私が、その女性との間に子を授かったのは、お前が生まれる10年前の話だ」
ブラックのそれに口をつけると、親父は切り出した。
――― 余計な過程は省くぞ
前置きどおり、急に核心を突いた話しかたは、らしさがあった。
「私も、相手も19歳だった」
「学生?」
「あぁ」
予想もしない過去。あの親父が、19で子供を?
頭の中、繰り返す疑念は拭えない。
「ちょっと待ってくれ、聞きたいことは山ほどある」
その子供は?
その女性は?
私の母親は、どこに?
そして、
私はこめかみを押える。
これは、悪夢なのだろうか。
夢は見ないと思っていたが、もしかしたらずっと、夢の中にいるのかもしれない。目を覚ませば、私の前には虹色の魚影が在るのかもしれない。そこからやり直せるのかもしれない。