恋の奴隷【番外編】―心の音H-2
「いけない、いけない!もうこんな時間じゃない。ついお喋りに夢中になっちゃった〜。とびっきり美味しいご馳走作るからちょっと待っててね」
ちらっと時計の方に目をやると、もう6時をまわっていた。朱李さんは暫く座っていたせいでついたエプロンのしわをさっさっと軽く伸ばすと、気丈な声とは裏腹に、無理矢理張り付けたような笑顔で、逃げるようにしてキッチンに向かった。
「母さんさ、後悔してるんだと思う。葉月に対する態度見てると、たまに痛々しいんだ。親子なのに遠慮してて…なんていうか葉月に嫌われるのを恐れてるみたい。ナッチーもあの頃のあいつを知ってるわけだし、誤解を解くためにアルバム、引っ張り出してきたんじゃないかな。自分のせいだって」
ノロはこっそりと私だけに聞こえるような声でそう言った。
私は朱李さんを責めるつもりなんてないし、むしろそんなことを指摘できる立場でもないけれど。やっぱり葉月君には同情してしまう。きっと、朱李さんも少なからず後ろめたさを感じているのだろう。私からはどんな言葉も掛けてあげられなくて、曖昧な愛想笑いを返した。
「素敵なお嬢さんになったねぇ。若い頃の朱李さんを見ているようだよ」
「若い頃って私はそこまで老けてないわよ!」
「もちろん、朱李さんは今も昔も綺麗だよ」
「うふふ!まぁ君ったら〜!」
えーっと…。私は今、椎名家で夕食をご馳走になっているところです。ダイニングテーブルを挟んで、私の向かい側では朱李さんとまぁ君の茶番劇が繰り広げられているわけで。完璧にアウェイな私。テーブルに並べられた美味しそうなご馳走の味さえもよく分からない。
「と、父さんも母さんも!いい歳こいて何やってんだよ!?」
「あら、歳なんて関係ないじゃない!」
ノロの“いい歳”発言に、朱李さんは少女のようにぷぅっと頬を膨らませて反論している。
お察しの通り、まぁ君とはノロの父親。昌治【まさはる】だからまぁ君という、その由来は容易に分かるのだが、アルコールも手伝って照れたようにほんのりと頬を赤く色付かせているその人は、そこら辺に居そうなメタボリックな中年男性で。まぁ君と呼ぶには流石に無理があるのではなかろうか。身長だって、下手したら朱李さんの方が高い。派手顔の朱李さんに比べたら、その顔はあまりに平凡過ぎて。何度か昌治おじさんとは顔を合わせたことがあるのだが、子供ながらに疑問を感じていた。優しくてとても良い人なんだけれど。人は外見じゃなくて中身、ということなのだろう。私が勝手に解釈して納得していると、
「僕は別嬪さんと縁があるのかな〜。なっちゃんもいずれ葵君のお嫁さんになるから我が家の一員だろう?」
昌治おじさんがそんな突拍子もない問いを投げ掛けてきて、私は手に持っていたグラスを落としてしまいそうになる。ちらりと横目でノロの様子を窺ってみたら、柄にもなくどぎまぎしながら耳まで真っ赤にして照れちゃって。
「ノロ…あ、葵君とはただのお友達です!」
「なぁ〜んだ」
早口でまくし立てる私に、昌治おじさんは残念そうにしょんぼりと肩を落とした。しかし、私がほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、とんでもないことを提案した。
「それじゃあ、葵君か葉月君のお嫁さん候補ってことでどうだい?」
「へっ!?だ、だから私は…」
「それ良いわね〜!私もなっちゃんだったら大賛成だわ〜!」
朱李さんまでもが私の話しを遮って、やんややんやと話しはあらぬ方向へと進んでいく。私のことなどちっともお構いなしで、口を挟む隙すらない。