『二人の会話』-6
「好物だ」
「あなたにご馳走するなんて言ってないわよ」
「ひどいな。手伝いだけさせておあずけか」
「味見くらいならさせてあげるわ」
「どうも」
コートの前を合わせながらこちらを見上げる葛西の顔に、もうなんの翳りも無い。それどころか、いつもより明るい顔に見えるのは、きっと道の端に残っている雪が日光を反射しているからだろう。
料理の味見が楽しみだ。葛西の料理は出来の良し悪しが激しいけど、機嫌がいいときは大抵美味しいから。
そうだな、大皿に一杯くらいの味見をさせてくれるよう頼んでみよう。
「どうも」
と、目の前の女性は機械的にスムーズに笑顔をつくる。自然な、というわけではない。訓練した末に身についたスムーズさだ。訓練したということを悟られるということはそれはそれほどの訓練では無かったということだが。
「ありがとうございました」
と、中立的な笑顔をこちらも作る。そうしながら、いかにもな笑顔だ、と僕は思う。口の端には自信が滲み、目尻には相手(つまりは僕)に対する優越の感情を湛えている。鼻の頭から眉間にかけての顔の中心には隙というものは見当たらない。やり手のキャリアウーマンや、PTAの役員を勤めているような人なんかがよくやるような笑顔だ。いかにも。本人はそれを洗練され、完成された笑顔だと思っているのだろう。しかしその洗練化(だと本人が思っているもの)の途上で削ぎ落とされていった部分こそが、無くしてはならない本質であったことを本人たちは気付いていない。気付かないまま、自分の笑顔をシックで感じのいいものだと思い込み、それを向けられた相手にいくらかの良い感情を抱かせていると思っているのだろう。そしてそれを自分の横柄な態度の免罪符にして、さらに有り余るくらいのものだと思っているのだろう。実際はいくらかの不快感を与えているにも関わらず。
アルバイトにこの仕事、本屋の仕事を選んで良かったと思う時は、客に対して苛立ちを感じた時だ。まず、仕事の半分は雑務的なことで、客との接触はそれほど多くないから、それから客の質というものがそれほど悪くないから。本屋に来るような人間は本質的には大人しさを持っているのかもしれない。例えば深夜のコンビニや、居酒屋なんかに勤めている友人の話を聞くと、まず自分はそこで働くことなんて出来ないだろうと思う。そんなにも酷い「オキャクサマ」に多く接さなければならないような場所では。
「オキャクサマ」という人種はなぜ、ああも横柄で理不尽なのだろうと思う。それは自分が店員である時以外でも思うことだ。いくらかの小銭を落としていくだけで、酷い時にはそれすらせずに、それに見合わないほどのモノや権利を要求する。自分が客の立場になる時は「オキャクサマ」には決してなるまいと思う。しかしそうなっていないとも限らないというのがまた恐いことでもある。そして最も恐ろしいのは、社会や世間は全面的に「オキャクサマ」の味方であるということだ。
腕時計をちらりと見る。休憩時間までもう少し。閉店時間まではあと1時間半くらい。それから閉店作業をして、帰れるのは2時間後だ。腹が減ったな。
「なんだかいい匂いがしますね」
会った時に後輩の水森さんに言われた言葉を思い出す。
「何かおいしいものでも食べてきたんですか」
水森さんが言っていたのはビーフシチューの匂いのことだろう。料理をしていたことで、他人に分かるくらいに匂いが自分に着いていたことにまず驚いた。それと、食べてきた、というのは間違いだ。作ってきただけで、食べてはいない。時間をかけて、とは確かに言ったが、僕のバイトの時間になるまでに完成しないなんて思わなかった。
「こういうのは時間をかけて煮込むほど美味しいのよ」
意地悪く葛西は言った。あれは計算づくだったに違いない。
「食べたかったらバイトを休めば」
とも言った。そんなわけにはいかないので、
「バイトが終わったらまた来るから、できれば僕の分を残しておいてくれよ」
と僕は言っておいた。運がよければ、ありつけるかもしれない。いや、葛西の機嫌がよければ、か。
上の空でいる間に休憩時間になる。レジを他の人に任せて裏の部屋に入る。