『二人の会話』-10
「まあ、そう言い切れるものでもないだろうけど。ところで、じゃあ葛西はどうしてジャズが好きなの?そういえば聞いたことなかったよね、これ」
「惰性みたいなものかも」
葛西は言って、ソファから上半身を持ち上げる。
「父親が、ジャズ好きでね。子供の頃よく聴かされたのよ。それが原因ね」
あまり良くない思い出について思い出すとき、人は微妙な形の笑顔を作ることが多い。葛西の表情はそんな感じに見える。
「おとうさんと、仲が良かったんだ?」
答えはなんとなく分かっていたが、僕はそれを聞く。会話の流れだ。
「良くなかった。両親ともと仲が良くなかったわ」
そこまで言って、葛西は何かに気付いたように、すっと息を呑む。
「そう、両親と仲が悪かったのよ、私、子供の頃は。よく喧嘩もした。それで、よく愚痴を言っていたんだわ、タロに。思い出した」
「タロ?」
「犬の名前。今日の昼に言った犬」
葛西の家に居た、もう死んでしまった犬。と僕は思う。タロ。
「タロ、いい名前だね」
「野暮ったい名前よ」
「でも親しみやすい」
葛西も、野暮ったいなんて言いながらも、その名前の響きを気に入っているように見える。
「どんな風に愚痴を言っていたの?」
と僕は聞いてみる。
「どんなって、普通よ。タロの前に座って、延々と愚痴を言うの、一方的に。たまに触ったり撫でたり抱いたりしながら。でもそれがなんだか良かった。勿論タロは私の言っていることなんて何一つ理解してないし、話の途中で勝手にそっぽを向いたり、どこかへ行こうとしたりした。でも私は愚痴を言い続けたの。私にとってタロは、そうね、少しばかり温かみのある壁みたいなものだった」
「温もりはあるけど人格はない」
僕はタロについて、要約と補足をする。
「そう、きっとその非人格性がよかったのね。タロは私を励ましたりなんてしなかったし、同情したりもしなかった。私の言うことに文句も言わなかったし、不機嫌になったりもしなかった。タロに向かっている時、どんどん私は自分勝手になれた。協調性だとか、遠慮だとか、そういうものなんて何もいらなかった」
「孤独の利点を保ち続けることもできるし、でも体温はある」
僕はまた要約する。
「どちらだったのかしら」
と葛西はコーヒーの入ったマグの取っ手に指を絡ませながら言う。
「何が?」
「重要だったのはどちらのポイントだったのかしら。孤独の利点を保っていられたことか、体温があったことか」
葛西はコーヒーの水面を注意深く覗き込み、そこに何も浮かんでこないことを確認してから口をつける。
「両方があった、というのが重要だったんじゃないかな」
僕はデイヴィスのトランペットが流れ出るステレオを見つめながら、それについて真剣に検討する。体温が大切だったのなら、犬よりも、やさしいお友達のほうがいい。孤独が大切だったのなら、パイプ椅子だってよかった。
「そうかもしれないわね」
葛西は言い、マグをテーブルの上に置く。そこから立ち上る湯気と、僕のマグから立ち上る湯気が絡まりあい、上昇し、すぐに空気に溶け込む。湯気は湯気としての独立性を失い、ただの空気の一部になる。そこに境界線は無い。
「ねえ」
と葛西は言う。まるで葛西の声じゃないみたいだ、と思ったのは、その響きに少しだけだけど優しさみたいなものが含まれていたからだ。