「命の尊厳」中編-1
ー夜ー
加賀谷は自分のデスクに腰掛け、思い詰めた表情で一点を見つめていた。
昼間に聞いた由貴の言葉。
否定しようとすればするほど、それは深く刺さった棘のように、存在を主張する。
(…移植による人格の転移…か…)
確かに最近の研究では、心臓などの臓器にも脳と同じようなニューロン組織や血管中枢があり、血圧や血流のセルフコントロールが出来る事や、記憶や学習に関わるとされる神経ペプチドを分泌している事実も、加賀谷は知っている。
だが、それらが人格に関わる働きをしているとは、到底、彼には思えなかった。
「…これじゃ堂々巡りだな」
加賀谷は意を決すると、受話器に手を伸ばしてダイヤルを押した。
わずかな沈黙からコール音が数回繰り返した後、柔らかい女性の声が聞こえてきた。
「国立循環器医療センターです」
加賀谷は受付の女性に伝える。
「〇〇大学病院、第1外科の加賀谷と申します。恐れ入りますが心臓外科の楢原教授に、お取り次ぎ願いたいのですが…」
女性は〈お待ち下さい〉と言って電話を一旦、保留にした。
受話器から保留音の流れる中、加賀谷はじりじりとした焦りを覚えた。
やがて、保留音が途切れて、張りのある声が受話器越しに響いた。
「やあ、加賀谷さん。お久しぶりですね」
少し高い楢原の声だ。
「楢原教授。先日は素晴らしいオペに関わらせて頂きまして、ありがとうございました」
お互いが簡単な挨拶を終えると、加賀谷は、いきなり本題に入った。
「実は心臓移植の権威として是非、助言を頂きたくて……
過去に移植されたレシピエントに、ドナーの人格が転移するなどという事例はあるのでしょうか?」
加賀谷の疑問を、楢原は黙って聞いてから、
「…加賀谷さん。何故、そのような疑問を?」
逆に問い質した。加賀谷は息を詰まらせ、黙ってしまった。
理由を言えば、由貴の事を言わなければならなくなる。
出来ればそれは避けたかったからだ。
だが、楢原は気づいていた。
彼は声のトーンを落として加賀谷に訊いた。
「…先日、移植をやった患者ですね?」
加賀谷は何も言わない。
すると楢原は一転、明るい口調に切り替えると、
「分かりました。何故かは聞かないでおきましょう」
そう言って言葉を続けた。