無色-3
「…帰ってしまったか」
秋康はさっきまで人がいた場所を見つめる。
自分以外いるはずのないこの世界にやって来た女に驚きはあったが、今は彼女がいなくなった悲しみが彼の心を占めていた。
「『貴方だけの世界』ね。この世界こそ、それだというのに」
秋康もまた、ふみと同じように意識を無くしてこの世界に来た。
ただ彼女と大きく違う点は、彼は自ら意識を手放したことと、意識を手放して100年は過ぎているということである。
秋康は画家だった。才能に恵まれ、生前は多くの作品を世に送り出していた。
しかし、30歳を過ぎた頃から近代化が急速に進む世間に嫌悪感を感じ始めた。それは月日が経つにつれ悪化し、しまいには家の中に引きこもるようになってしまった。
そして、42歳の誕生日、秋康は家の窓から飛び降りた。
この世界は秋康のためだけにあるようなもので、全てが存在しない、無色の空間だった。彼は素直に喜んだ。何もない世界に希望を感じた。
しかし、彼の心の奥深くの部分が色を欲しがり始めた。初めは小さな変化だけだった。しかし、少しずつその思いは彼の気持ちとは無関係に大きくなり、世界に色がつき始めた。
このままだと、無色の空間が消えてしまう。
焦った彼はこの世界でも意識を手放そうとした。
しかし、出逢ってしまった。
「ふみさんが来なければこの気持ちごと埋葬できたんだがね」
そして、気付いてしまった。
「どうやら、気付くのが遅すぎたようだ」
自分は、本当は怖かったのだということ。
新しい色が古い色の上に重ねられていく世界を直視することが、置いてかれたような気持ちになっていたのを自分で認めたくなかった。だから自分の命を絶った。
本当は、透明の世界に行きたかったんじゃない。
新しい色が欲しかった。
「もう『空白の時間』ともお別れだな」
そう言ってまた前を向く。
廃墟だったはずの目の前の空間は温かな色をした小さな家に変わっていた。
一緒に堕ちよう。
2人だけの、透明の世界へと──
──そしてそこに色をまたつけよう。
僕らだけの新しい色を──。