恋の奴隷【番外編】―心の音A-1
Scene2―ドM?
─ただの気まぐれよ。ちょっとからかわれただけで、きっと今日にはもう忘れているはず…。
翌朝、私は苦い表情を浮かべて、暗示にかけるようにそう心の中で呟きながら電車に揺られていた。普段ならこの時間は読書をして有意義に過ごすのが私の日課であるのだけれど、今日はとてもじゃないけど読書なんてする気分になれない。しかも、いつもはラッシュアワーを避けて比較的混雑していない時間帯に家を出るのに、今日はそれすら乗り過ごしてしまう始末。むしろ遅刻ギリギリ。斜め後ろの中年サラリーマンがくちゃくちゃと音を立ててガムを噛んでいて、より一層、私を不愉快にさせる。
昨日、あれから委員会に出たのはいいけれど。終始上の空の私は、熱でもあるんじゃないかって心配されてしまったわけで。周囲から早く帰るよう促され、仕方なくその指示に従った。しかし、電車のドアには挟まるし、家に着いたら上履きのまま帰っていたことにようやく気が付く始末…。
とにかくもう散々だった。だから吊り革につかまっていない方の私の手には上履きの入った袋が握られているわけで。私は朝からそれはそれは重く深い溜め息を静かに吐いた。
昇降口でキョロキョロと辺りを見渡し、誰もいないことを確認すると、こっそりと体をかがめて袋から上履きを取り出す。
「なぁーに隠れてやってんのぉ?」
すると、朝っぱらから甘ったるい声が私の耳をくすぐった。私がビクっと体を大きく震わせると、後ろからくすりと小さな笑い声が聞こえる。
「ナッチーおはよ!あれ?朝から刺激強過ぎちった?」
そう言ってひょいっと私の前に顔を覗かせてきた人物―椎名葵。
「うわッ、顔真っ赤!ナッチー本当可愛いなぁ」
眉根を寄せてこれでもかってくらい睨み付ける私に、奴は口の端をにぃっと上げて嫌な笑みを浮かべる。
「ほらほらーそんな怖い顔したらせっかくの綺麗な顔が台無しでしょ?」
そう言うと奴は、私の口角辺りを指でつまんで押し上げてきた。
「ぶっ…はははは!変な顔っ!」
刹那、私の中でプチッと何かが切れる音がした。
「言ったでしょ?あなたみたいな人大っ嫌いなの!気安く触らないでよね変態!」
私はそう言うと同時に、怒りを込めて奴の腹部を膝で思い切り蹴り上げた。私、こう見えて小さい頃から空手を習ってたのよね。そこらの男の子にも引けを取らないくらいあまりにも強くなり過ぎてしまった私に、両親はもっと女の子らしくなって欲しいと、変わりに日舞やピアノなどをやらせたのだけれど。
苦い記憶が蘇り、ふるふると頭を振って視線を奴に戻す。すると、お腹を抱えてしゃがみこんでいた奴が、俯きながらクツクツと嫌な笑い声を漏らす。私はギョッとして目を見張り、恐る恐る奴の様子を伺っていると、苦しそうに涙を浮かべて私を見るなり、奴はこう言ったの。
「ゲホッ…やっぱお前最高だわ」
…この人もしかしてドM?呆気に取られている私をよそに、
「言っただろ?俺はお前みたいな奴、大好きだって」
そう言って奴はにへらと笑ったものだから、私は舌を巻いてしまった。
…きっと性格が相当ねじ曲がっているのね。とは思いつつ、奴からの突発的な告白につい照れてしまう自分にも腹が立つ。おまけに“大”まで付けて、昨日よりちゃっかり昇格しちゃってるじゃない。自分の頬に手を当てて、まるで茹でタコのように赤くなっているだろうことにまた苛立った。別に男の子に好きって言われたことがないわけじゃない。けれど、奴に言われると何故だか調子が狂ってしまうわけで。
「ほら、早くしないと遅刻しちゃうよ」
すっかり回復した奴は、平然とした顔で私の手を掴み、私達は一緒に教室まで走ったのだった。