《SOSは僕宛てに》-1
もし人生というものが、生命の織り成す物語だとしたら、僕の演じるその舞台の演目は…悲劇なのかもしれない…。『愛』という陳腐なテーマについて考察してみる。創作を前提に考えれば、それは冬の夜空に瞬く星屑のように儚く、物語に彩りと生命の息吹を与えてくれる。しかし、僕が現実の上で『愛』を考えれば、それは虚像であるとしか言いようがない。形は確かに存在しているが、飽くまでそれは、実物の裏に在る影でしかない。これは離婚した両親から学んだ事だ。ならば実物は何処に在る?僕はその面影を、物語の中でしか見い出す事ができなかった。ここで少し、話しを脱線する。トーマス・マンという作家が、こんな言葉を残した。『物書きとは、執筆が他人より困難な人である』 異論や反駁は多々在るだろうが、僕はそれを事実として受け止めている。単なる、プロ作家としてのプレッシャーという問題には留まらない。安易な語呂合わせや稚拙なテーマで文章を書く事の愚かさを、物書きは誰よりも良く知悉しているから。僕はそう考えている。あるいは、僕に才能がない事に対する言い訳かもしれない。それでも、僕はその言葉を懐刀のように胸に秘め、今この文章を書いている。
話しを戻そう。それが困難で在るにも関わらず、僕は『愛』を不変のテーゼとして小説を書き続ける。プロに成れる才能が在るとは思えないが、それでも一生、僕は書くのを止めないだろう。前述した通り、僕は現実に真実の愛を見い出す事ができないからだ。僕が書くのは、途方もない憧憬で在り、見果てぬ夢でも在る。現実が厳し過ぎるから。物語の中でしか安息を得られない。フロイト的に言うならば、人間の持つ防衛規制に従い、『昇華』と言う適応能力で自我を擁護しているのだ。ただそれだけの、惨めな事。故に、創造する喜びに取り憑かれる。大多数の人間は、現実世界において幸せを見い出す事も可能だが、残念ながら(と表現するべきだろう)、何の因果か僕はそうでなく、マイノリティに属している。恐らくは、多くの作家もそうなのだろう。それを才能の一種として表現する事も、あるいは可能なのかもしれない。それはいささか、悲しい意味では在るけれど…。とにかく、僕に取って書く事は、喜びで在ると同時に苦痛でも在るのだが、今、此処に書き記す。それは、僕が『彼女』の中に想い描いた、見果てぬ夢の成文化で在り、決して叶う事の無い、憧れという名のクロニクルだ…。
産まれ育った街が嫌いだった。そして、離婚間近の不仲な両親が嫌いだった。だから僕は、遠く離れた私立の大学へと進学した。決してウチは裕福な家庭ではなかったし、二年前には、兄が専修学校に入学していたため、僕を大学に入れる経済的余裕はなかった。それでも僕は、あの街を出たい一心で親を説得した。進学費の問題は、新聞社の奨学金を利用する事で解決した。新聞配達をする事を条件に寮に入り、登校前と帰宅後、日に二回の配達作業を行う。授業料はその奨学金で賄う事ができたし、寮代は無料。朝と夜は食事も出るし、毎月給料も支給されたので、仕送りも必要なかった。大学卒業まで仕事を続ければ、奨学金は返済する必要はない。仕事と学校を両立させれば、当然、自由な時間も少なくなる。朝は早くに起きなければならないし、学校から帰れば、夕刊を配達しなければならない。そして夕食後は、また明日の仕事に備えて早めに就寝する。健康的ではあるが、忙しく、とても辛いシステムだった。
だから、途中で根を上げて退寮する人も少なくない。退寮すれば、奨学金は一括で返済しなくてはならない。元々、経済的な援助が目的で加入した訳だから、退寮はすなわち、大学中退を意味する。辞めていった人たちは、フリーターに成り下がったり、就職口を探すのが常だが、正直、この程度の生活で挫折する人間に、大した未来はないと僕は思っていた。僕はと言えば、今の生活に不自由は感じていなかった。と言うより、自由を求める気持がないだけかもしれない。歳を重ねる度、人との間合いの取り方ばかりに長け、人との触れ合いに対する欲求が希薄になっていった。対人関係を円滑に営む才が、明らかに欠如している事は自認している。殻に篭り、扉を閉め、鍵を掛ける。大学でも寮内でも、僕は物静かに日々を過ごし、暇な時は、もう何度も読んだ村上春樹の小説を読み、多忙なくせに退屈な、どこか矛盾した毎日を送っていた。