《SOSは僕宛てに》-23
『紀崎翔子』
死の刻印が、冷たく無機質な墓標に刻まれていた。整然と立ち並ぶ墓標の中、ひっそりと翔子の墓標はたたずんでいた。名残も面影もない、ただの石だ。羽純は静かに方膝を土に付き、手を合わせ、哀悼の意を表した。固く閉ざされた瞼の裏には、年下になってしまった姉の笑顔が浮かんでいるのだろう。初夏の涼やかな風が、彼女の長い髪をなびかせた。悲しみに絶える毅然とした横顔は、美しかった。僕の脳裏で、羽純と翔子の横顔が重なり、消えた。やがて羽純は瞳を開き、口を開いた。
「亮さん。覚えてる?」
「うん?」
「私があなたに逢ったあの日、『亮さんって、もしかして、私の事好きだったんですか?』って、訊きましたよね」
その横顔に微笑みを浮かべて、羽純は言った。悲しみを隠す顔ではない。故人を偲ぶ、穏やかな笑みだった。羽純は、すでに悲しみを越えつつ在る。悲しい目ではなく、楽しかった想い出として、翔子を想い出そうとしていた。
「覚えてるよ。好きだった。過去系で、僕は答えたね」
随分と昔のように感じられた。羽純はうなずく。
「何故、私が姉の事を訊いたか、分かります?」
羽純は僕を横目にした。僕は首を振る。
「鈍いですね。好きだったんですよ?姉も、亮さんの事が」
何も言えなかった。過ぎ去りし日々の想いを確かめても、もう、彼女は居ない。笑わないってくれない。
「例の鳥類図鑑を買ってきてくれた時、姉は、嬉しそうに亮さんの事を話してました。そりゃ、好きだとは言わなかったけど、顔を見れば分かりますよ。血を分けた姉妹ですからね」
懐かしそうに、羽純は言った。僕はやはり、何も言えなかった。
「その内、姉は写真を見せてくれました。バスケ部が合宿に行った時の写真です。亮さんと姉が、楽しそうに笑ってました」
「…それで、君は僕の顔を知っていたのか」
覚えてる。その写真は、本当は僕の手元に来る筈だった。翔子が好きだった僕は、その写真を楽しみにしていたが、結局一度も見る事はなかった。翔子が持っていたのか。
「姉がまだ幼稚園に通っていた頃、あなたと良く遊んでいたのは、知っています。その頃も、姉は良くあなたの事を話していました。「りょうくん」って言う男の子と遊んだよ。明日も一緒に遊ぶ約束をしたよって。嬉しそうに…。小学校は別々になったけど、中学に入って、バスケ部であなたを見付けて、話しかけるべきかどうか、悩んでました。どうせ自分の事は忘れてるだろう。って言って」
僕は、静かに翔子の墓標を見つめていた。羽純の話しで彼女を想い出しても、眼前には冷厳な事実が存在している。
「姉は、本当はね。読書好きなんかじゃなかったんですよ?ただ、あなたが良く、本屋で小説を眺めているのを知っていたから、チャンスと思って、文学少女の振りをして話しかけたんですって」
「そうだったんだ…」
僕は言った。
「その時、口実として手に取った『ノルウェイの森』をあなたに勧めて、自分は一旦、村上春樹の新作だけを買って、亮さんと別れた後、こっそり本屋に戻って『ノルウェイの森』を買ったんですって。話しを合わせられるように」
微笑ましい話しだった。無垢で健気な話しだった。けれど、それは飽くまで二度と帰らない『過去』の話しで…。僕の胸を刺すような痛みはごまかせなかった。
「姉は、困ってましたよ。『ノルウェイの森』を家で読んでみたら、とても大人びいた話しで、『もしかしたら私は少しエッチな子だと思われたかもしれない!羽純…どうしよ』って言って、困ってました」
羽純はその時の翔子の困惑振りを想い出して、愛おしげに微笑んでいた。
「…そんな事ないよ。とても、知的な子なんだなって、そう思っただけさ…」
僕は物言わぬ墓標に語りかけた。
「聞いた?お姉ちゃん…頭の良い子だと思ったって、亮さん、言ってるよ?良かったね」
聞こえないんだよ…羽純。死者は答えてくれないんだよ…。
「引っ越しが決まった時、姉はとても悲しそうにしてました。初恋は叶わないものなんだって言って、強がってましたけどね。引っ越して、あの街に来て二年後、肺炎でした。亮さんが通う高校が進学高だって、電話でバスケ部の友だちから聞いて、必死で勉強してました。亮さんと同じ高校に通いたくてね。体調が悪くても、強い人でしたから、私や親に心配をかけたくなくて…ずっと無理してたんですね。風をこじらせていたのに、毎日学校に行って勉強して…ある日、塾の帰り道で倒れたんです。たまたま通りかかった人が救急車を読んでくれましたけど、病院でそのまま…」
羽純は立ち上がった。僕を見つめて、ペコリと頭を下げる。