《SOSは僕宛てに》-22
僕たちはゆっくりと歩いた。監獄の中の動物たちが、憧憬の眼差しで僕等を見つめているような気がした。幼い頃の翔子も、彼等のこんな瞳を見ていたのだろうか。
「…夢をね、見たんだ」
穏やかに吹き抜ける初夏の風に乗せ、僕は呟く。
「…夢?」
彼女の呟きも、風に浚われかのるように儚げに吹き消された。
「君は知っていたかな。翔子とは、中学に入る前。物心付く頃に良く遊んでいた時期が在るんだ。小さい街だったからね。不思議ではない。僕も今朝、想い出したんだけど。中学の頃は覚えていた。流石に翔子は忘れているだろうと思って、敢えて彼女には言わなかったけどね」
彼女はうなずく。
「それは、知っていました…続けて下さい」
「夢の中でね、その頃の僕たちに逢ったんだ。あれは肌寒い秋の日で、当時僕が飼っていた仔猫が死んだ日だった。交通事故だった。その夢を見たお陰で、良く覚えてる。直撃ではなかったけど、小さい躰だったから、即死だった。…僕の目の前で死んだんだ。翔子に見せてあげようと思って、公園に行く途中だった。仔猫をしっかり抱き締めて離さなかった、僕が悪いんだ。僕の腕から逃げて、道路に飛び出した。車の横を躰が擦めて、鳴き声まで潰されて、冷たいアスファルトの上に転がったのを、良く覚えてる。僕は仔猫を両手に抱いて、泣きながら公園へ歩いた。何故家に帰らなかったのか。多分、僕のせいで仔猫が動かなくなかったから、僕が独りで治してあげなきゃいけない。そう感じたのだろうね。公園に行けば翔子が居ると思ったけど、彼女の力は借りずに、僕独りで治してやろうと思った。でも、心の何処では気付いていた。どんなに頑張っても、仔猫はもう、動く事はないって…。次第に冷たくなっていく仔猫の躰が、僕にサヨナラを言ってるようで、哀しくなって泣いていた。公園には着いたけど、誰も居なかった。それを望んでいた筈なのに、僕はどうすれば良いか分からなくて、途方に暮れた。ただひたすら、祈って、涙を流すだけだった。長い時間そうしてたら、その内翔子がやってきて、猫が死んじゃったの?って、僕に訊いた。その言葉で初めて、僕はその子の死を認めたんだ。翔子は僕に言ったよ。泣いたら猫はもっと可哀相。笑って送ってあげなきゃ駄目だって。無垢な言葉だよね。幼かったからこそ、言える言葉だったと思う。それから彼女は僕に言ったよ。私が死んだら沢山泣いて、その後は笑って欲しいって。悲しい目で私を見ないで、楽しかった想い出として、笑って想い出して欲しいって…」
彼女と僕は、遠い空の彼方に眼差しを向けた。皮肉な程に青かった。
「僕は約束したんだ。いつか君を想う時、微笑んで想い出すと…」
彼女は上空に向けた視線を僕へと戻した。僕は言った。
「約束を果たす時は、今。なのかな…?」
彼女は暫し沈黙した。その顔にいつもの微笑みがない事が、哀しかった。
けど、うつ向いていた顔を上げた時には、笑みを象っていた。
「ええ。約束、果たしに行きますか?」
苦痛を覆い隠す為の微笑みだった。それでも、確固たる決意を秘めた、毅然とした態度だった。強かったのは、翔子だけじゃない。君もそうだよ。
「連れてって、くれるかな?」
「…はい」
二人は動物園を後にした。
翔子は昔、僕と一緒に本屋に行った時、病弱で学校を休みがちの妹の為に本を買って帰った。易しめの小説が多かったが、動物好きの姉妹を想い、僕は小遣いを負担し、翔子と一緒に鳥類図鑑を買った事が在る。僕はようやく想い出した。姉は「翔」。妹は「羽」。そう、今傍らに居る少女の名前は、「翔」の姉ではない。「純然な羽のように白く、身も心も美しく」の意で命名された、『羽純』だった。電車の中で彼女にそれを確かめると、「あの鳥類図鑑、今でも大切に持ってますよ」と言って、羽純は笑ってくれた。
それはとても、愚かな事だと思う。大切さに気付いた時、それはもう、僕の手の届かない青空へと飛び立っていた。清く澄んだ『翔』をはためかせ、地上を後にしていた。「サヨナラ」も言わずに、その小鳥は去っていた。後に遺されたのは、その『翔』から舞い落ちた、一片の『羽』。僕は心中で語りかける。『怜治、僕の乗った列車は、流石に空の駅には行けないみたいだよ…』
電車を三回乗り継いだ。駅から出て、小一時間程、僕等は言葉もなく歩を進めた。想いは空の向こうへと羽ばたき、四散するようだった。予想はしていたが、目的地に着いた時、流石に打ちのめされた。もしかしたら、小鳥は空の彼方へは飛んでおらず、何処かでひっそりと翔を休めているだけかもしれない。そんな淡い期待は、泡沫の夢のように消え去っていた。其所は、冷然で厳然な、偽りなき真実だけを僕に突き着けた。やはり、墓地だった…。