《SOSは僕宛てに》-21
紀崎邸の前庭を通り、彼女が待つ場所へと向かう。
「おはようございます」
彼女は微笑む。
「おはよう」
僕も微笑み返す。新聞と手紙を渡す。
「あっ、手紙書いてくれたんですか?昨日遅かったのに」
「マメだろ?」
彼女はまた笑った。
「そうですね」
僕等はまた、洒落を効かせてみたり、からかってみたり、他愛のない談笑に花を咲かせた。あるいは、そんな遣り取りも今日で最後になるのかもしれない。僕は最後に言った。
「手紙。今日は早めに読んでおいてくれるかな」
「え?何で?」
「読めば分かるさ。じゃ、仕事が在るから、もう行くよ」
「あっ…はい。行ってらっしゃい」
僕がいつもと違うと感じたのか、それにより何を思ったのか、彼女は雑多な想いを顔に浮かべた。僕は踵を返し、その場所を後にした。
少女は無駄に広い部屋に戻り、茫洋としていた。先刻の、あの人の態度が、強くその胸を締め付ける。もしかしたら…と思う。彼に貰った白い便箋を見つめた。誰に語りかける訳でもなく、その口唇から言葉が漏れる。
「もう…いいの?」
ふと、微笑んだ。安らかな笑みだが、悲しみを称えるようでも在った。まるで、遺族を見守る、穏やかな死者のようですら在った。意を決して、便箋の封を開け、手紙を取り出す。折り畳まれた手紙。開いてみた。見慣れたあの人の字。
『君の名前が、想い出せない。彼女の顔すら、忘れているのかもしれない。それでも良いなら、僕に真実を教えて欲しい。君は何故?そして、彼女は何処?朝の仕事が終えたら、君を迎えに行くよ』
手紙の字がにじんだ。頬を伝う雫が、流れ落ちた。一粒。また一粒。ぽろぽろと。
「…もう…いいんだね?」
泣き崩れた。強く手紙を握りしめ、嗚咽を漏らし、何度も、幾度も、声にならない想いを紡ぐ。
「あり…がとう」
それは、本来の意味での、彼女自身の言葉だった。
朝の分の仕事を全て終え、一旦寮に帰ると、僕はまたすぐに出かけた。月曜だが、行き先は大学ではない。仕事以外ではバイクを使えない為、徒歩で向かう。歩きながらも、想い返していた。
『亮さんって、もしかして私の事、好きだったんですか?』
『過去に戻るんじゃなくて、一から作り上げて行きたいんです。だから、過去形で良いんです』
『う〜ん…じゃあ、動物園?』
断片的に思い出される、彼女の台詩が、エレジーのように悲しく響いていた。
二時間も歩いたが、不思議と疲れはなかった。また、此処へ来た。前を見る。少女が立っていた。毅然としていた。
「…行こうか」
「はい」
僕たちは歩き出した。会話はなかった。今此処で話す必要性は感じなかった。二人の間を、冷たいような、優しいような、そんな沈黙が隔てていた。
電車を乗り継いで、また此処へと来た。動物園。今しがた開店したばかりの其所に、人の気配はなかった。不思議そうに二人を見つめる日本猿。末だにまどろみをむさぼるライオン。皆、何処か覇気とプライドを失っていた。僕は隣の少女を見遣った。少しだけ、目が赤かった。暫く歩いた。やはり、言葉はなかった。それでも、永遠の静寂など在りはしなかった。
「…やっぱり、気付いたのは昨日ですか?」
少女は言った。
「ああ。その前から何となく、違和感は感じていたけど、確信したのはね…」
僕は言った。
「動物園に行きたい。もし君が翔子なら、その台詩は、有り得ないんだ…」
「…聞かせて下さい」
「中学の頃、翔子が僕に言ったんだ。動物は好きだけど、動物園は嫌いだって。小さい頃、君たちは家族で動物園に行った。此処と同じで違って、それは小さな動物園だった」
「…はい」
「やっと家族を見付けて、心配した両親が駆け付けた時でも、翔子は泣かなった。強い子だったんだね。いっぱい動物を見たよ。楽しかったよって。そう言って、最後まで泣いたりなんかしなかった。動物も、家族も、みんなを安心させる為に、必死で強く在ろうとした。七歳だよ?本当に、普通なら考えられない程、強くて優しい子だった。多分、君はその時の翔子の印象が強くて、彼女は動物園が好きだと想い込んでいたんじゃないかな?君だって幼かったんだ。親ならともかく、見抜ける筈がない。でも、実際はその時の迷子が軽いトラウマになって、翔子は動物園が嫌いになったって、翔子は言ってたよ。だから、君が昨日、動物園に行きたいって言って、不思議に思った。でもその時は、流石に高校生だし、克服したのだと思ったけど、君は言ったよね?『動物園なんていつ以来かな』って。僕が『小学一年生の時以来だろ』『昔、君から聞いた』と言ったら、君は『そうでしたっけ?良く覚えてますね』と言ったよね。中学生で僕に説明した時は鮮明に覚えていたのに、高校生になって、実際に動物園にきてまでそれを想い出せないのはおかしいだろ?」
「そうだったんだ…知らなかった…」