《SOSは僕宛てに》-2
ある晩、僕は急に寮長から配達ルートの変更を知らされた。なんでも、僕と同じ一年の女子が退寮したため、配達先に穴が開いてしまったらしい。僕等一年生がこの寮に入ってから三ヶ月。最初の脱落者だった。彼女の分の埋め合わせは、同じ学年の寮生が補うルール。不幸にも僕と彼女の配達ルートが近かったため、僕はその余波をくらうはめになった。配達ルートが変化したのは、僕も含めて三人。誰もが脱落者の女子を恨んだ。
その日の朝、バイクに新聞を乗せて配達の準備をしていると、珍しく僕に話しかける寮生が居た。話しかけると言っても、僕と目も合わせず、バイクに新聞乗せながら僕に背を向けての言葉だった。
「最悪だよな。俺なんて方向音痴だからよ。配達ルート、カンペキに覚えるのに一週間もかかったんだぜ?ここら辺の道、複雑だからな…迷って時間に遅れたら寮長に叱られるしよぉ。お前、一番ルート変わったんだろ?災難だよなぁ、ったくよ」
朝から愚痴を聞かされた僕は気のない返事をし、これ以上会話が続かない事を願った。つまる所、僕という人間はそういう奴なのだ。
元から僕に気の効いた返事は期待してないのか、彼はまだブツブツ言いながら、バイクの籠に新聞を詰め込んでいた。一足先に準備を整えた僕は、彼の口が再び僕に向けられない内に、
「じゃあ…僕は行くよ」
と言い残してバイクを走らせ、早朝の街へと駈り出した。
僕は一日の間で、この時間帯が一番好きだった。世界に対して、どことなく冷めた見解を持つ僕は、活動的な昼が嫌いだった。夜は好きだが、この仕事柄、早くに寝てしまうため、楽しむ余裕はない。 長い夜が明け、太陽が顔を出そうとする頃、世界が淡い紫色に染まるこの瞬間。この時だけは、僕は世界を美しく感じた。黎明の空気は冷たく、バイクのエンジン音以外は、辺りを優しい、しじまが包む。ひっそりと静まり返った住宅街を、朝日に染まりながら、風と共に走り抜けた。
この仕事の、少なくとも朝刊配達だけは好きだった。閑静な世界に、ひとりぼっちの感覚が好きだった。穏やかなようで、不思議な高揚感が在り、何故だか幼心を思い出す。
いつもの景色を走っていると、危うくルートが変更したのを忘れる所だった。一旦バイクを止め、地図を取り出し、ルートを確認する。最初の団地は変わらないが、その次。いつもの団地に行く前に、もう一つの団地に回らなければいけないようだった。いつもなら寮に戻ってすぐ朝食を摂り、支度を整えてから駅に向かってギリギリの時間なのだが、この分だと、電車を一本遅らせる事になりそうだ…。僕は溜め息を吐き、バイクを吹かしてまた走り出した。
空に、紫色から白みがかかり、僕の嫌いな青空へと変わり始める頃、二つ目の団地に到着した。バイクを止め、ウチの新聞を買っている家の登録票を取り出し、住所を確認する。配達先の家は団地の六割方に該当していた。思っていたより少ない。これなら、朝食を早めに済ませればいつもの電車に間に合うかもしれない。僕は登録票に載っていない家の団地番号を頭に叩き込み、バイクを走らせた。
二〜三十軒の家に新聞を配り、住宅街の端まで行くと、ひときわ大きな家が目に付いた。僕の記憶が正しければ、この家もウチの新聞を取っていたはず。家の前までバイクを走らせ、停車した。エンジンはかけたまま、籠から新聞を一部取り出し、玄関へと歩く。すると、今まで塀の影になっていて分からなかったが、門扉の前に、パジャマ姿の少女が座り込んでいるのに気付いた。髪の長い、僕と同年代とおぼしき少女だ。エンジン音に気が付かないはずはないが、少女は夢遊病者のように茫洋と空に視線を馳せている。僕はどこかで見た顔だな、と思いつつ、規則通りに
「おはようございます」
と挨拶をして、少女に新聞を手渡した。そこで初めて少女は僕の存在に気付いたように、
「あっ…。おはようございます」
と言って新聞を受け取った。少女の視線は一度新聞に向けられ、やがて僕の顔へと移った。目が合うと、僕はますます少女の顔に見覚えが在る気がして、門扉の表札を確認する。『紀崎』。…やはり、どこかで聞いた事が在る…。
もう一度少女の顔を見る。彼女も何か思う所があるのか、記憶をたどるように目を細め、僕を見つめていた。にらんでいる訳では、ないと思う。