《SOSは僕宛てに》-19
寮に帰り、シャワーを浴びた。暖かなお湯に躰は洗われても、胸のざわめきは落ち着かなかった。シャワーから上がると、手早く着替を済ませ、怜治の個室へと向かった。
「よう。お前か。珍しいな、お前から来るなんて。ま、いいや、入って」
怜治は温かく迎えてくれた。部屋に入る。僕の部屋とは違って小説など一冊もなく、棚の上にはコロンやピアスが無造作に転がっていた。
「適当に座って」
「ああ…悪いね」
怜治はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。
「割りと片付いてるね。意外だよ」
僕は室内を見渡して言った。
「いつ女が俺の温もりを求めて転がり込んでも良いように」
怜治はおどけて言った。
「流石だね。モテる男は意図が違う」
と僕は言った。
怜治がキッチンから両手いっぱいに抱えて来た。それをテーブルの上に置いた。ウィスキーだった。
「どうした?そんな話しをしに来たんじゃねぇだろ。ま、良い報告でない事は、顔を見れば分かるけどな」
ショットグラスにウィスキーを半分注ぎ、その上からジンジャーエールを注ぎながら彼は言った。
「これ、カクテル?何て名前?」
「オイオイ、話しを反らすなよ」
怜治は苦笑した。僕は押し黙った。
「振られたか?」
「振られた訳ではない」
僕は一口だけ酒を嚥下した。胃の腑に熱の塊が落ちるのを感じた。
「成程…じゃ、玉手箱を開けちまったか」
怜治は嘆息しながら呟いた。
「パンドラの箱と言え」
「どっちも同じさ。開けてはいけないって点でな」
怜治もグラスを傾けた。一口で僕の三倍近く飲んでいた。
「怜治。君だったらどうする。欲しい物が、いや、救いたい者が、目の前に在るんだ」
僕は薄い褐色の液体に視線を落とした。
「…ああ」
怜治はうなずいた。
「それを救いたいと言う気持は、本物なんだ」
「うん」
「だけど、その為には、壁を越えなければならない。目には見えないけど、きっと、高い壁なんだ。途中で落ちたら、もしかしたら取り返しの付かない事になる」
「…ああ」
怜治は真剣な眼差しで煙草に火を灯した。
「壁でなくても良い。河でも、崖でも、とにかく、其所意外に道はない。僕は、その道を切り開いて助けるべきなんだ。SOSが聞こえるんだ。大きな声じゃないけど、でも確かに、この胸に届いてる…」
「じゃあ、助けに行けよ。何を迷う?」
「…色々な事が、分からないんだ。助けた所で、どうやって元の場所に戻れば良いのかも。いや、助ける事、それ事態、僕に取って良い事なのかどうかも。命を賭けて助けても、僕が求めるものは其所にはないのかもしれない。助ける価値がないって訳じゃない。その価値が、複雑過ぎて、結果的に、僕を打ちのめす事になるかもしれない…」
僕は言い終えると、グラスをあおった。
紫煙をくゆらせていた怜治も煙草を灰皿に押し付け、ウィスキーを飲み干した。
「…相当に複雑な迷路みたいだな」
「ああ、おまけに、出口が存在するのかどうかすら、分からないんだ」
「亮、傷付くのが、怖いか?」
窓の外の夜闇に視線を這わせて、怜治は訊いた。
「怖くないと言えば、嘘になる」
灰皿の中の残り火を見つめて、僕は呟く。怜治も僕も、暫くの間、言葉を忘れていた。僕は静かにグラスを口に運び、怜治は新しいマルボロに火を着けた。
「…亮。俺はな、心底お前って奴はスゲーと思うぜ?」
僕は眉間に皺を浮かべた。
「…何だよそれ」
怜治は苦々しく笑い、グラスにウィスキーを注ぐ。
「俺は、お前みたいに、そこまで誰かを本気で想えない。馬鹿な話し、一緒に寝た女の数なら、この寮内で一番の自信が在る。けどな、それが何になる?俺が遊びで付き合ってんのと同じで、女の方も俺に、大切な何かを求めたりはしない。当然だよな。俺が求めてないんだ。求められる筈がない。それだけの価値が俺にはないから、俺も女に求めたりはしない。束の間の寂しさをまぎらわす為に、見せかけの優しさにすがり付いてんだ。けれど、俺は彼女たちに本気の想いをぶつけたりはしないから、彼女たちはすぐに、俺の元から去っていく。女は鋭い。幾等プレゼントしても、巧くセックスしても、気付いちまうんだ。ズルイよな。多くを求めすぎだ。それでまた、俺は新しい女を探す。すぐに終わると知っていてもな。その繰り返しさ。だけど、お前は違う。俺にはない決定的なものを持ってる。なぁ、亮。そいつは努力で手に入るもんじゃないんだぜ?お前、俺の『紳士の条件その四』、破ったんだろ?それが証明している。俺は、破りたくても破れなかった…。紳士なんてもんはな、クソさ。自分の体裁や矮小なプライドの為に人の顔色を伺うだけ。お前はそうじゃねぇんだろ?村瀬亮」
怜治は煙草をくわえたまま、正面から僕を見据えた。