『傾城のごとくU』中編-8
「でも、蟹なんて珍しいわね」
「それはアラスカ産だ。アソコはこの時期で日本の真冬より寒いから、もう旬なんだよ」
「じゃあ蒸し蟹にしましょう」
母はビニール袋を父から受け取ると、台所へと消えて行った。
チコは寝所から起き上がると母の後をついて行く。そして、蟹が入れられた蒸し器の真下で、それを眺めていた。
母は蒸し器の前で湯気の上がり具合を見つめてる。チコはとなりの流し台に飛び乗ると、蒸し器から上がる湯気を眺めなて〈フンフン〉と鼻を鳴らしている。
「あらっ、チコ。アンタも食べたいの?」
チコは母のそばにチョコンと座った。目を大きく見開き、黒目を大きくさせながら。
母はガスレンジを消して、蒸し器の蟹を大皿に盛りつけた。
「千秋、お皿とハサミを取って」
私は母に言われるまま、お皿と料理バサミを出した。
〈いただきます!〉
皆で蟹を食べようとした時、耳元で〈ニャ〜ン〉という声とチコの視線を感じた。
チコは台所のテーブルに前足をかけて立ち上がると、口元近くに鼻を近づけてくる。
「何…欲しいの?」
私に向かって、〈ニャ〜ン〉と鳴いている。まさに猫なで声。
「お父さん。チコ、蟹が欲しいんだって…どうする?」
「少しくらいなら良いんじゃないか?」
私はチコの餌入れを持って来て、その中へ蟹の身を入れて与えた。チコは待ち遠しかったかのごとく、蟹にむしゃぶりついた。
足肉を食べるのに30秒と掛らない。
私が食べようとすると、〈ウニャウニャ〉と奇声を発しながらテーブルに飛び乗ると、蟹の足をくわえようとする。
「チコ!ダメよ!テーブルに乗っちゃ」
捕まえて降ろすと〈ニャァァーン〉と鳴いている。〈何すんだよ!食べようとしたのに〉と、言っているかのようだ。
「お父さ〜ん……」
困った私に、父は仕方がないと言いたげに、
「もう少し食べさせれば満足するさ」
かくして私はチコのために、蟹の身を取ってやる羽目となった。
チコの食欲というか蟹に対する執着は激しく、もう足肉3つは食べている。
「つけ根も食べるんじゃない?」
母が言ったように試しに足のつけ根肉をあげた。ひと口食べたがその後は匂いを嗅ぐだけで、〈ニャ〜ン〉と言って他をねだる。
「足肉以外は食べないなんて!贅沢な猫ねぇ…」
姉、小春の分を残して蟹はオシマイとなった。チコは〈仕方がない〉と言いたげな表情でカラの行方を見つめていたが、やがて顔を洗うと寝所に消えてしまった。
夜。家族で夕食を囲む時、姉にだけ蟹が出された。チコは小春のヒザに乗って蟹を欲しがった。
初めて見せた食べ物への執着だった。