苦悩の決断-1
「なんということだ」
アパートの一室に到着した老刑事は洩らした。
死んでいたのはその部屋の住人の田中知子である。死因は腹部を包丁でヒトツキの出血多量だった。
発見者は元夫の正雄。ふたりは半年以上別居状態だった。
さっそく正雄への捜査が始まった。正雄はたまたま久しぶりに通りかかったので寄ってみると、この有様でしたと言った。老刑事はまったく信じようとせず、正雄は署へと連行された。正雄はつねに何か考えているようだった。
捜査は隣人にも及んだ。
右隣りの住人の篠田高明は留守だったが他の住人から高明が知子の部屋に入っていくのをみたという証言を得た。
篠田が帰宅したのはその事件の3日後だった。旅行に出かけていたのだといった。出発日をきくと、ちょうど事件が起った日の昼すぎだと言った。老刑事は何やらメモして帰っていった。
その後事件は急展開した。
知子の部屋から手紙が発見されたのだ。送り主は正雄だった。内容は以下のようなものだった。
「俺はお前を許した訳ではないぞ。殺したいくらい憎んでいる。でもその反面もう一度仲直りして二人でやり直したいとも思っている。お前もよく考えておいてくれ。近いうちに家に行かせてもらう。」
憎んでいる原因は篠田の存在だった。篠田は知子に夫がいるのを知っているのにもかかわらず、頻繁に食事に誘ってくるのだ。正雄は不倫だと思い込みかっとなって家をでたのだ。
この手紙を読み終えた老刑事の顔は何故か怒りに満ちていた。老刑事は犯人を正雄だと断定した。篠田も視野にはいれていたが必要ないと判断したようだ。正雄はかたくなに否定したが無駄だった。そこでしかたがなく、知子からの返事の手紙をだした。
その内容はこうだった。
「いきなりの手紙でびっくりした。あなたは、誤解してるわ。私はあの人とはあまり関わりたくないの。でもあの人のせいで私とあなたの関係がくずれた。だから私は復讐しようと思ってるの。近いうちにあの人を家に呼んで…」
手紙を読む老刑事の顔は今度は悲しそうだった。老刑事が読み終えたのをみて正雄は「だから慌ててあの部屋に行ったのです」と言った。
刑事は推理を一変して篠田を逮捕した。旅行に出発する日の午前中に知子に呼ばれて部屋に行き言い争いになって殺害したと推理した。
篠田は知子に呼ばれて部屋に行ったことは認めたが、殺害したことは否定した。部屋にいくとすでに知子は死んでいたらしい。通報しようか迷ったが自分に疑いがかかるのをさけようとしたのだと供述した。
老刑事は犯人を断定することができなかった。どちらも疑わしい反面、疑わしくないとも思った。
そして月日が流れこの事件も真相が分からないまま忘れ去られようとしたころ老刑事はある夢をみた。
それは苦悩の末に決断した娘、知子の自殺の夢だった……
篠田への復讐は殺すことではなく自分を殺害した犯人として逮捕されることだったのだ。そうすれば自分は苦悩から逃れることができて、また篠田への復讐も達成できる。
老刑事はその夢をみたきり目を覚まさなかった。