揺らめきたる月のπ-2
「…ふーん。…何で陰湿だってわかんの?」
「それはな、これ、これ。これ見てくれよ。いじめてた方の顔写真がチェーンメールで回って来てさ。いかにもやること陰湿って感じだろ?」
―どうせこいつだって誰かに回すに決まってるのに。僕は携帯を覗き込んだ。
そして僕が見た携帯の画面に映し出されていたのは…
陸橋で出会った彼女だった。
「これ…」
「結構可愛いのにな。やっぱり女って怖いね。」
声が少し震えているかもしれない。
「これ…俺にも回してよ…。」
「OK、OK。後で送るよ。」
その後は何を話したかもさっぱり覚えていない。ただ、目の前で携帯の画面に映った彼女がいつまでもちらついていた。
授業が終わると教室から一気に走り出した。間違いない、彼女は、彼女はきっと死のうとしていた。きっと。やっとの思いで陸橋まで辿り着く。こんなに走ったのは久しぶりだ。息が乱れたままゆっくりと一段づつ階段を踏みしめながら上って行く。彼女がいたら何を話そう。何を話せばいいんだろう。
そして上りきった先に見えたのは…誰もいない陸橋の手摺りだった。
彼女が立っていた位置に同じように立ってみる。手摺りに触れると滑らかで冷たく、誰もいない事を教えてくれた。僕は馬鹿だ。彼女が今日、この時間にいるかどうかなんてわからなかったのに。彼女が死のうとしていたかどうかだってわからないのに。というか、そもそも僕はなんでこんなに必死で走ってたんだ?あかの他人が死のうか悩んでいてもどうだっていいじゃないか。第一、誰かをいじめて自殺に追いやったような子だ。それに友達でも知り合いでもないんだ。彼女だって死ぬ気は無いっていったじゃないか。もしかしたらあのチェーンメールだってがせネタかもしれない。馬鹿馬鹿しい。何を焦っていたんだろう。
もう9時半か…帰ろう。
けれども次の日、僕は彼女を見つけた。学校から家に帰り、炬燵で何気なく見ていた地方紙の片隅で。
“○○駅裏陸橋から飛び降り自殺…亡くなったのは近くの高校に通う女子生徒(16才)で…目撃者の証言によると昨日の午後10時頃…”
―彼女だ。彼女に違いない。昨日の午後10時?僕は9時半まであそこにいたんだ!
早くなってくる呼吸と共に家を飛び出した。
足がもつれる。呼吸は激しく速くなる。目の前が滲んでいる。喉がひりひりと痛む。空気が通る度に肺から変な音が聞こえていた。
どうして僕は彼女の目を信じなかったんだ?こんな嘘ばかりの景色の中で、彼女の目だけが真実だったのに。彼女の目が助けてと叫んでいた事が、たった一つの真実だったのに。それなのに僕は気付かない振りをして…。
陸橋に辿り着くともうすっかり日が落ちて、白い月が黄色くなっていた。階段を上がり、彼女がいた手摺りのあたりに歩み寄る。手摺りは冷たく、少し土がついていた。昨日僕が居た時は汚れていなかったはずだ。その土をそっと指で撫でると、土はぱらぱらと落ちていった。
―彼女がここに足を掛けたんだ。
僕の中で熱い塊がゆっくりと膨張していく。僕は必死でそれを押さえ込む。
こうやって走って走って、そして彼女がこの世界から飛び出す前に、僕が間に合ったからといって何が出来たんだ?何も出来はしなかった。だって僕は彼女を知らない。何も知らない。
でも…例え何も知らなくても。友達でも知り合いでもなかったとしても。誰かをいじめて死なせてしまうような人だったんだとしても…。それでも。それでも僕は彼女を助けたかった。彼女に生きていて欲しかったんだ。僕は…僕は、彼女のあの目を見た瞬間から…僕は…。僕は…。
押さえきれなくなった塊が、僕の中を満たし、そして一気に破裂した。破裂した破片は目や口、体中から溢れだした。涙、嗚咽。呼吸、鼓動。痛み、恋心。僕はここにいて、彼女はここにいない。ここにはもういない。
ああ、月が揺らめいている。