せかいいちしあわせなはなし-2
「いえ、実にお恥ずかしい。貧乏人はこんなものが宝だという証でございますよ。たまぁに物好きな方が、いくらかで買っていって下さいます。そのお恵みでもって、妻のくすり代もまかなえる、というものでして・・・。」
白く息を吐きながら、おじいさんはそう話しました。
身に着けているものは服というより布で、手も鼻も寒さで真っ赤になっているのに、おじいさんの体はちっとも震えておりませんでした。
女の人はショールを巻きなおすと、万年筆を手にとりました。
なにか、懐かしさのようなものが浮かんだ女の人の目をみて、
「思えば、わたしにも娘というものがおりました。」
おじいさんは更にぽつり、ぽつりと、呟くように語りはじめました。
「かわいそうな子でした。ちょうど、お嬢さんと同じくらいの背格好でしてね。年も、お嬢さんときっと同じくらいでしょうなあ。ただ、わたしらにとってみれば、かけがえのない可愛らしい子でしたが、本人はお嬢さんみたいにお綺麗じゃないのを気にしていましてねぇ。それに加えて家がこんなでしょう。とうとうね、十年前に飛び出してしまったんですよ。」
いつの間にか雪はやんでいて、辺りはおじいさんの声だけになりました。
女の人は万年筆を握ったままで、その場にたちつくしているようにもみえました。
「かわいそうでしょう・・・たったの十五歳ですよ。たったの十五歳だったんですよ。・・・せかいいちしあわせになるんだ、って叫んでね。あのときも、こんなふうに寒い日でした。雪は降っていなかったけれどもね。せめてこんなふうに雪が降っていたら、あしあとをたどれたかもしれないのに、・・・。」
「失礼、ですけれど、」
女の人は下を向いたまま、やっと口をひらきました。
手にはまだ万年筆が握られていて、手袋ごしにもその感触がつよく、つたわってきました。
「娘さんは親不孝者、ですよね・・・」
「いいえ、そんなことはございません。」
うってかわった、おじいさんの強い口調に、女の人は思わず顔をあげました。
おじいさんの小さな目はうるんでいましたが、流れでた涙はしわとしわのあいだで光るだけで、机をぬらすことはありませんでした。
「いけないのはわたしたちなのです。わたしらが、娘を不幸にしてしまったのです。いけないのは、あの夜に雪が降っていなかったことじゃないのです。いけないのは、雪でも降らなければ娘のあしあとを見つけてやれなかった、わたしたちなのです。・・・そうなのですよ、お嬢さん・・・。」
「・・・・・・・・・。」
女の人は、黒いコートをぬいで、丸まったおじいさんの肩へかけてやりました。
女の人は、黒い手袋もとって、あかぎれだらけのおじいさんの両手にのせてやりました。
最後に、女の人は黒いショールをはずして、雪のせいでぬれてしまったおじいさんの頭をふんわりくるんでやりました。
「・・・これで、」
女の人の声は震えていましたが、それは寒さのせいのようにも思えました。
「・・・これでも売って、・・・奥さま、の・・・お薬の足しになさってください。」
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
おじいさんは涙をぽろぽろこぼしながら、笑ってお礼を言いました。
流れ落ちた涙は、黒いショールに吸い込まれて、机をぬらすことはありませんでした。