大きな木の下に-1
「大きな木の下に」
「遅くなっちゃったな」
年末の忘年会シーズン、居酒屋で働いている僕は今年も例外なく多忙を極めていた。片付けまで終えてようやく店を出たころは既に夜中で、草木も眠る丑三つ時、なんて言葉を連想させるくらいの真っ暗な闇の中を僕は駐車場に停めていた車まで走っていた。
今日は朝から母が体調を崩しているため、早く帰って様子を見てあげたく思い、いつもは急ぐことのない帰り道をいつもの倍は急いでいた。
車に乗り込み、静寂の中をエンジンをかけ車を走らせる。母が心配でついついアクセルを踏む足に力が入ってしまう。
そんな帰路の下り坂、スピードが上がった車は曲がり角に差し掛かり、それでも緩いコーナーだからとスピードを緩めずに車を走らせ続ける。
「!!」
不意に、ライトに照らされた道路の右側、白い物体が視界に入った。
『猫だ!』
左に切れば猫は轢かないですむが、ガードレールに追突して崖からダイブは間違いない。右に切れば猫は轢いてしまうが自分は無事なはずだ。フルブレーキをかける中、瞬時にそんな賭をする。なぜか酷くスローな時間が流れる。
そんなとき、その猫の隣に更に一回り小さな白い影が視界を過ぎり、僕は不思議とそれが子猫だとはっきりと見てとっていた。
母猫が、おそらくは自ら犠牲になるために、こちらへと走る。
間に合わない、と思った刹那、何故か僕は左に思い切りハンドルを切っていた。
気付けば真っ白な静寂の中に、僕は佇んでいた。
『ああ、きっと僕はあのときに死んだんだ』
自然にそう悟った僕は、何故か不思議と穏やかな気分で辺りを見渡してみた。
何もない、空間。
「待ってたよ、お兄ちゃん」
不意にかかった声に振り向くと、7つ8つくらいの少女が少し離れたところに立っていた。まだあどけない、瞳の大きな色白の可愛い女の子。背中に伸びた茶色の髪を大きな赤いリボンで二つに結んでいて、白いドレスのような洋服がよく似合っていた。
「君は?」
「ここでお兄ちゃんを待ってたの」
「僕を?」
何だかよくわからないが、この状況も理解できないし、少し話してみたいと思った。
「お兄ちゃん、もうすぐ死んじゃうんだよ」
「え?」
突如告げられたそれに、僕は更に疑問を抱いた。どうやら僕は、生死の狭間というやつにいるようだ。それならばこの少女は、差し詰め死神とか、そんなものなんだろうか?
「あたしのママね、殺されちゃったんだ。お兄ちゃんが殺したんだよ」
「…!?」
刹那、頭をよぎったのは、事故の瞬間視界に入った白い猫の親子だった。もしかするとこの子は、あの子猫の化身のようなものだろうか?ママが死んだ、ということは僕はどうやら間に合わずに母猫を轢いてしまったらしい。
「お兄ちゃん、ママを殺して…あたしを一人ぼっちにしたの。
あたしはまだ目が開いたばかりで、どうやって生きて行けばいいのかわからない。だからお兄ちゃん、ママの代わりに死んでよ」
鈴の鳴るような声だと思った。
こちらにゆったりと少女が歩み寄る。可愛らしい大きな瞳が見開かれ、怨念のようなものが感じて取れた。僕は自然に後退する。
「き、君のママが飛び出してきたんだ…。それに僕は、君たちを助けようと…」
「あのままのくるまの方向だったら、あたしとママと二人を轢いてたはずだよ。そうじゃなくて、迷ったでしょ?お兄ちゃんの判断が遅れたから、ママは死んだんだよ」
自ら犠牲になった、と言葉を続けようとしたが、それは少女に遮られ、その指摘が正しいことに僕は押し黙る。内心では、それでも助けようとしたのに、と怨みに近い思念を抱く。死を前にして、そんな正義を冷静に判断できる人間などいない。ましてや、相手は猫だ。