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『蝶』
【悲恋 恋愛小説】

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『蝶』-1

「みて。ほら」

とっさに指を指してしまった。指はさすものではないと、祖父に言われてからは、ずっとずっと守って来た事なのに。
でも、早くしなくてはならない。なんとなく時間が無いような気がするから。
それは僕にも勿論云える事なのだけれど、ハチコには確実に時間は残っていない。
だから自分の中の、決まり事すら無視してしまったのかもしれない。

「なに?」

ハチコの反応は、いつでも少しだけ遅い。
少し低くて、耳に心地よい声。
僕はもう見えなくなってしまった蝶を説明してあげたいと思った。何処にでも居そうな、さっきの蝶を。

「蝶。」

僕は長ったらしい会話を嫌う。だから少しずつ、景色が変わる様子を楽しみながら吐き出す。残されていないように感じる時間も、僕の言葉だけは待っていてくれるような気がする。
勿論ハチコも、僕の言葉を待っていてくれる。

「何処に?」

ハチコは気まぐれに僅かな笑みをくれる。

「もう居ないけど。あっちのほう――行っちゃった。」

これから、ハチコが行ってしまう方向に蝶は行ってしまった。
偶然だろうか?

「だから、ね。俺の代わりに、ハチコのこれから見るもんを先に見てこいって、頼んだ。」

柔らかな草の上に転がる。
健気に咲く白い花をむしる。思ってもいない事ばかりが頭に浮かぶ。

「見させないわ。」

真面目な声。怒っているわけでもない、これが普通の状態のハチコの声。
ハチコが時計をチラリと見る。
その動作はさりげない物だったけれど、目をつぶっていた僕はめざとくそれを感じる。

「―うそ。蝶に嫉妬なんて生まれて初めて、した。」

ハチコが笑う。く、く、く、と小さく笑う。ハチコの時間が無い事を僕は知っているけれど、僕の時間が無い事をハチコは知らない。僕だけが感じる。

「俺も、行きたいな。」

ハチコが驚いた顔をする。そして、笑顔になる。風が、吹く。

「―行こうよ。」

僕はハチコに、一緒に行く事を一度だけ誘われた。だけど僕はそれを巌として受け入れようとしなかった。ハチコはしつこい事が嫌いだから、僕にそれ以上誘う事はなかった。
僕は行きたくないわけではない、けして。でも、行けない。
何も答えない僕をハチコが覗き込む。
どんな顔をしようという、案はまったく無かった。ただ、ハチコの顔を覚えたくて、ハチコの顔をじっと見ていた。
グレーがかった切長の瞳を覚え、次に病的に白い肌を覚えた。真っ黒に染めてある長い髪や、鼻筋の通った鼻を覚えて、唇を覚えてやろうと唇を見つめた瞬間、閉じられていた唇が開かれた。


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