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『蝶』
【悲恋 恋愛小説】

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『蝶』-2

「蝶ちょになりたかった時が、あるわ」

ハチコは僕を覗き込むのをやめた。
僕の行く意志のない事を、悟ったのかもしれない。僕は空に目を移し、ハチコの声に耳を傾けた。
ハチコが悟った事に異義は無かった。

「本当に小さい頃だから、夢って呼べるものでも無いけど」

僕の見ていた空に蝶が現れた。
白い蝶はハチコのほうへヒラヒラと飛んで行く。

「3日くらいでそんな事、忘れちゃったみたい。ただ、なりたかったって事実だけが記憶に残ってる」

蝶は瞬きの間に、消えていた。

「ハチコ、俺、蝶になるかも」

蝶は確かに消えていた。
ハチコは笑う。

「俺、ハチコ好きだよ」

風は吹く。ハチコは僕を見る。
薄い唇を、ボルドーのリップを、震える動きを、全て僕は覚える。ハチコはさっきの蝶を見ていただろうか?
ハチコの此処にいられる時間はあとわずかだ。新しい土地での新しい時間が、ハチコを待っている。
目がかすむ。身体が水の中に居るが如く、重く感じる。時間も同じように重く、鈍い動きを見せる。
ハチコの肩を引き寄せる。僕の唇をボルドー色に染めたいと、急に、思った。
そっと唇に指で触れる。ふるふると震えるハチコの頬は濡れている。
僕は舌でそれを拭う。ハチコの唇に僕の唇を添わせる。それは触れて、体温を確かめるような行為。

「どうしたらいい?」

――もう、お互いの時間が迫っていた。
風が静かに吹く。
ハチコは行った。
僕は煙草を取り出して火を付ける。
目のかすみは酷くなる。涙が止まらないのかもしれない。よく、分からない。
『どうしたらいい?』僕が言ったのか、ハチコが言ったのか定かぢゃない。
煙草はどんどん灰になる。
吸う気になれない。腕も、足も身体全てが重い。ハチコの事ばかりが頭に浮かんでいるから。
ああ、情無い、ハチコの幻まで見える。向こうから、歩いてくる。―ハ、チ、コ――?
僕は無意識の内に立ち上がっていた。
ハチコは蝶の飛んで行ってしまった方から、歩いてくる。
幻では無かった。確かにそこにハチコが見える。

「ハチコっ」

ハチコが微笑んで足を早める。
僕も、ハチコへ―――
足は、動かない。
汗がやたらに出て、僕はどうしたらいいのか分からない。
まえのめりに僕は倒れ込む。全ての音という音が聞こえなくなる。身体が重い。ハチコを見たいというのに、身体を起こす事すら出来ない。
ハチコに声をかけたいというのに言葉は出ない。
やっと、顔をハチコの方へ向ける。

ハチコが驚いた顔をして走ってきている。
ハチコ。
もういつでも見れる。時間なんて気にせずに。
だから一度、目をつぶろう。
落ち着きのある声、切長の瞳、白い肌、柔らかい髪、筋の通った鼻―――ボルドー色の、唇。
いつでも、見れる。

身体が軽くなる。それと同時に、ハチコが僕倒れている横に駆け付けた。
息をきらせてハチコは泣いている。

「ハチコ、俺ハチコが、―――す、き、だ」

言った途端、身体はもっともっと、軽くなって、今、とても、眠い。

ハチコの声が、聞こえる。


「…ルイ、起きて…」


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