恋人達の悩み4 〜夏一夜〜-1
谷町菜々子に関するどたばたが一段落し、季節は夏へと近付いていた。
いつも通りに龍之介は、美弥を送って伊藤家までやって来る。
自宅の門前まで来ると、美弥は途端に寂しそうな顔になった。
「家に帰ったらメールするから。そんな顔しない」
龍之介がそう言うと、美弥はこっくり頷く。
…………可愛い。
我が恋人ながら、何でこんなに可愛い仕草をしてくれるのか。
きちんと知り合う頃に男がいなくてほんとに良かったと、龍之介は思う。
もしも美弥に男がいたら、龍之介は寝取り寝取られの泥沼な三角関係をたぶん勝ち抜けなかった。
「……美弥」
「ん?」
龍之介はきょろきょろと周囲を見回し、人目がない事を確認する。
「きゃっ」
人目がない事を確認した龍之介は、美弥を引き寄せて抱き締めた。
僅かに顔を傾けると、意を察してか美弥はまぶたを閉じる。
ちゅ……
ふるふると溶けてしまいそうに柔らかい唇は、ラズベリーの味がした。
「甘……」
呟いて、龍之介は美弥の唇を覆っている甘酸っぱいリップクリームを全て舐め取ってしまう。
「……すけべ」
潤んだ瞳で呟く美弥の唇を、龍之介はたっぷり舐め回した。
「ん……ん……」
龍之介のシャツを掴み、美弥は小さく声を漏らす。
その時一番近い角を曲がって来たサラリーマンの姿に、キスに没頭していた二人は気が付かなかった。
その人物は門前で重なり合っている二人を見て、目を疑う。
「美弥!?」
呼び声に、キスでうっとりしていた美弥は意識が現実へ引き戻された。
「お、お父さん!?」
「……うげっ?!」
二人は、同時に声を上げる。
「お、おま、お前達……何をやってるんだ!?」
美弥父は悲鳴を上げた。
残業漬けの毎日で、今日は珍しく定時で帰って来た父親にしてみれば、自宅の門前で娘が男に抱き締められてキスを受けているという、目を疑いたくなるような行動を目にしてしまったのだから……まあ、ショックは察するに余りある。
「と、と、と……とにかく……こんな不埒な真似をした事情を、聞かせて貰う!二人共、来なさい!」
「あら、気付いてなかったの?」
あっけらかんとした妻の言葉に、美弥父は唖然を通り越して呆然とした。
「泊まりに行っても何も言わないから、知ってるもんだと思ってたわ」
「そ、それじゃ……週末の外泊は……」
泊まりに行って龍之介といちゃいちゃべたべたしてます。
「友達の家に泊まりなんて言い訳、まさか本気で信じてたの?第一あなた、美弥が部屋に彼氏泊めたのを見てたでしょ?今更何を騒ぎ立ててるのよ」
そう言った彩子が、ニヤリと笑った。
「あぁ……ま、友達は友達でもボーイフレンドならば、嘘にはならないわね。確か英語で友達にボーイとかガールって付けると『恋人』って意味になったはずだから」
ぐむっと詰まる美弥父、伊藤直惟(いとう・なおただ)。
「あ……そ・れ・と・も」
彩子は直惟の顎に手をかける。
「このあたしと美弥が選んだ男は、そんなに気に入らないのかしらあ?」
直惟の額へでろでろと脂汗が浮き出すのを、龍之介は見逃さなかった。
それと同時に、何で眼前でこういうパフォーマンスがあってもこの兄妹は両親の秘密の趣味に全く気付いてないんだろうかと、疑問に思う。
「いえいえふまんなどまったくさっぱりどこにもあるはずがないぢゃあありませんかはっはっはっ」
「分かればよろしい」
一件落着すると、彩子はニヤリと笑った。
「という訳で、彼氏」
いきなり話の水を向けられた龍之介は、焦る。
「は、はいっ?」
「美弥の事、よろしくね」
「は、はいっ!それはもちろん!!」
最敬礼でもしそうな勢いで、龍之介は返事をした。
彩子は、満足そうに微笑む。
「じゃあさっそくだけど、夏休みの間よろしくね」
『はいっ?』
美弥と龍之介は、同時に声を出した。
「あたし達、夫婦で七月末から八月いっぱい旅行に出ようかと思ってるの。永年勤続者に対する一ヶ月のリフレッシュ休暇っていうのがあるから、それと有休を使ってね」
寝耳に水の話に、美弥は唖然とした。
「貴之は盆の挨拶がてら実家の世話になるって言ってたし……残るのは美弥、あんただけだったのよね。彼氏の家に世話になるなら、大丈夫でしょ」
「いやあの」
龍之介が何とか声を搾り出すと、彩子は不機嫌そうな顔になる。
「何、不満なの?」
龍之介は、慌てて首を横に振った。
親公認で、夏休み中美弥と同棲。
そんな夢のように素ン晴らしい状況が向こうから転がり込んで来たのだから、逃がす訳にはいかない。
「いや……そんなに信頼いただいていいのかという意味で、つい……」
「前に言ったでしょ?」
彩子は手を振る。
「あたしは娘が選んだ男を全面的に支持するって。美弥を泣かさない限り、その支持に変わりはないわ」