辛殻破片『甘辛より愛を込めて』-8
「ショウちゃん」…たったこれだけの一言が、部屋の外から僕の耳まで届くなんて。
リビングからじゃ決して届かない声が、こんなに近くまでやって来るとは。
いるのか? 部屋の、すぐ外に。
「……佐々見くん? か、顔色悪いよ? 大丈夫?」
シックスセンスってヤツだろう。
選択を誤ったら取り返しのつかないことになりそうな気がする。
早いとこ話を切り上げないと。
冷静に、息を乱さず最低限まで声を押し殺して雪さんに問いかける。
「あの…お時間の方は…」
「どうしたの、いきなり小声になって……時間?」
釣られて雪さんも小声になる。
「…大学」
「ああっ!?」
「は間に合いますか」と言おうとしたところで雄叫びを上げられた。
『大学』という単語で今の『時間』を思い出したと見受けられる。
一応…計画通りだ。
だがしかし、完璧な計画ほど崩れやすいものだった。
目で見えず耳で聴こえる事実が誤解を招く、か。
「ちょ、声が大き」
「もう三十分も遅れてる! 忘れてたー!」
普通の人ならばこの会話を音声だけで聞いても、特におかしいところはないと思うだろう。
…今の凪は普通なのか?
「ああゴメン! 今から簡潔に説明するから聞くだけ聞いて全部受け止めて!」
僕が口を開くよりも早く、雪さんは相当な早口で喋り続けた。
「話は全部夜回し! 今日はすぐ帰る様に努力するから今日一日中ここにいて! えーとえーと、うん! それだけ! じゃあね!」
一瞬でメガネを装着し、一瞬で鞄を取り、もの凄い勢いで部屋を出ていこうとする雪さん。
早口すぎて聞こえなかった部分を聞き直そうとした僕もいたが。 更に、また気付いた。
完璧な計画ほど……。
瞬時に思考回路を切り替える。
──今、そのドアを開けられたら──
「待って! そこには凪が───」
思い届かず、雪さんは豪快にドアを開けた。
そこには純粋でいたいけで、誰のせいでもなく狂ってしまった少女がいるはずなんだ。
『勘違い』とは恐ろしいものだ。
事実だと思いこんでいたものが事実ではなかったという。
当の勘違いをしていた本人は、真実を噛みしめるのに時間がかかる。
正に今の僕である。
そこに凪が存在していたことを示す欠片さえも見つからなかった。