恋の奴隷【番外編】〜愛しの君へ〜-4
それから幾つも季節は巡って、俺は中学生になった。あの日以来、柚姫には会っていない。突然訪れた別れの所以も知らされぬまま、俺の前から柚姫はいなくなった。幼い頃のほんのわずかな期間だったけれど、柚姫と一緒に過ごしたあの日々は今も俺の記憶の中に鮮やかな色を添えていた。柚姫の笑顔が俺の心を優しく包んでいたから。ただ、柚姫はちゃんと笑顔を取り戻してくれただろうか。それだけが気掛かりだった。
時折、俺は学校の帰り道、少し遠回りをしてあの公園の前を通るのだけれど。あの頃は見上げないと見えなかった滑り台の頂上も、今では俺の目線と同じ高さになっていて。塗装の剥げたブランコは淋しげに風に揺れて錆びた音を出して。誰かが遊んだような形跡のない砂場は、相変わらず人気のないことを物語る。柚姫と一緒に見ていた景色のはずなのに、今では笑い声は遥か遠く、ひっそりと静けさを帯びていた。そして時の流れを痛感し、虚しさに下を俯いたまま俺は帰路へと足を戻した。
「優磨君…?」
すると、後ろから控えめに俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、見覚えのある顔に俺は息を飲んだ。
「優磨君よね?すっかり大きくなったけど、面影は残ってるわね」
嬉しそうに笑みを浮かべて話すこの人は。
「覚えてるかしら?瀬波柚姫の祖母です」
そう、あの日、柚姫の手を引いてこの公園にやって来た女性。幾分年をとったようにも見えるけれど、優しそうな顔付きや穏やかな口調が、記憶の中のその人と重なった。
「柚は…柚はどうしてますか?」
俺は震える声を押さえつつ、静かにそう尋ねた。
「元気に毎日学校へ通ってるわ」
柚姫の祖母はにこりと微笑むと話しを続けた。
「あの日はちゃんとした理由も教えないでごめんなさいね。あの頃はまだあなたも幼かったから話さない方がいいと思って。それに、大きくなればきっと忘れてしまうと思ってた。でも今日この公園を悲しそうに見つめてるあなたを見て、もしかしたらと思って声を掛けたの」
柚姫の祖母は申し訳なさそうにそう言った。
「教えてもらえませんか?柚に何があったのか…」
俺は顔を強張らせつつも、力強くしっかりとした声でそう聞いた。
「そうね、今ならもう私の話しも理解できるはずだから…」
柚姫の祖母は俺の方に目を凝らすと、淡々と話し始めた。
最後に柚姫の笑顔を見たあの日。いつものように俺のことを嬉しそうに柚姫は話していたそうだ。しかし、突然、病院から柚姫の母親の容態が悪化したから直ぐに来て欲しいと、電話が掛かってきたのだった。慌てて柚姫を連れて病院に駆け付けると、青白い顔をした柚姫の母親がベッドに横たわっていて。暫く会わないうちに酷く痩せ細った母親を見て、柚姫は戸惑いを隠し切れずに泣き出してしまった。柚姫の母親はもう柚姫を抱き寄せて、宥めてあげる体力すら残っていなかったらしい。泣きじゃくる柚姫を、悲しそうにじっと見詰めて。ごめんね、と消え入るような声で呟くと、そっと目を閉じ、その瞳が柚姫を映し出すことは、二度となかった。
それから─
柚姫の瞳は色を失った。母親のいない現実から目を逸らして。深い悲しみから遠ざかるように。柚姫の記憶は過去に遡ってしまった。母親と過ごした楽しかった過去へと。ただ、感情だけ置き去りにして。
その後、幾度となく病院で心の治療を施され、ようやく現実を受け入れて前に進めるようになったものの、その前後の記憶は失われたままで…。