忘れてしまった君の詩・2〜プロローグ〜-1
熱帯夜。
フト、何かの物音が聞こえたような気がして、私は読んでいた本から顔を上げた。
机の上、脇に置いた携帯電話に手を伸ばす。液晶にはいつも通りの待ち受け画面。無機質な数字の羅列が現在の時刻を示している。
10時50分。
彼から電話がかかってくるには、まだ少しばかり早い時間だ。
「気のせいか」
わざわざそう呟いてから、私はそれを元に戻した。正直自分でも、なんて未練がましいセリフだと思う。
だがそうしなければ、私はいつまで経っても、それから手を放すことができないと思ったのだ。事実、こうして本に目を落としている今でさえも、神経は携帯の方に向きっ放しだった。
生徒たちから『風紀の魔女』なんて呼ばれている私が、その一方で、電話の一本にヤキモキしているなんて、きっと誰も想像していないに違いない。
そう――かけてくる当の本人でさえも。
それがなんだか悔しくて、別にたいして興味もない本の内容に、私は意地になって没頭しようとした。
だが、それも無駄な試みだった。
辛抱の足りない私の目は気がつけば、文章を追うことを放棄して、必要もないのに彼からの着信の有無ばかりを確認している。
彼からの電話はいつだって、決まった時間になればかかってくるというのに……。
夜の11時ちょうど。
それが彼と私が決めた約束の時間。
それは彼の家族が寝静まった時間であり、彼がすべての家事を終えて自室へと引き払う時間でもあった。
今時にしては珍しい、なんとも献身的な少年だと思う。
普通、彼ぐらいの年頃の男の子ともなれば、なによりも自分の時間を優先したがるものだ。
なのに、彼は文句も愚痴のひとつも聞かず、掃除炊事洗濯はもちろんのこと、家計のやりくりに至るまで、かいがいしく家族の世話をやいている。
その仕事ぶりといったら、一応、大人の女である私ですら、到底マネのできるものではない。
それだけではない。
彼のすごいところは、そんな雑務を毎日こなしながらも、学校では常にトップクラスの成績を修めていることだ。
私も学生時代、それなりの成績を修めてきたつもりではある。
けれど、それは学業に専念してこれたからであって、彼のような生活を私が送っていたならば、決して同じようにはいかなかった。
そのうえ、人間関係もすこぶる良い。
クラスメイトや同級生はもちろんのこと、先輩や後輩、果ては彼を指導するべき立場にある大人たちですら、彼には一目置いている。