多分、救いのない話。-4--4
慈愛は教師に対し隔意がない。というより、誰に対しても態度が変わらない。常にニコニコとあの間延びした口調で話している。
何も知らなければ、のんびりおっとりなお嬢様にしか見えないのかもしれない。けど水瀬には、慈愛がそう見せ掛けているように思えてならなかった。それはあまりに巧みで、“何も知らなければ”水瀬も騙されたかもしれない。だけど水瀬は、騙されるには様々な経験を重ねてしまった。
そして、予想どおり、今日も慈愛は保健室にきた。さりげなく他の生徒を人払いしていたので、昼休みにも拘らず保健室に生徒はいない。そして慈愛はそんなことを気にする余裕もなかったようで、「ベッド貸してくださいな〜〜」と言ってあっという間に眠り込んでしまった。いつもどおりの彼女だ。
気を抜くと、もしかしたら葉月先生の思い込みかもしれないと思うほど。それほどまでに、慈愛はいつもどおりだった。
「メグちゃん」
はにゃ?と寝呆けた返事に苦笑しながら、だけど気を引き締めて、生徒を傷つける覚悟で指摘する。
「首、怪我してるね?」
空気が、凍った。しかしすぐに、
「葉月先生から聞いたんですかぁ?」
と、いつもの口調で問う。だが、いつもにはない鋭さ、或いは危うさを、水瀬は確かに感じ取った。
「そう。階段でこけたんだって?」
メグちゃんらしいなぁと水瀬は笑ってみせた。ぷくぅと頬を膨らませながら、それでもやはりニコニコと、
「そうなのですよ〜。自分でもびっくり仰天なのでした」
「大丈夫だったの?」
「はいー。切り傷だけなので。なんともなかったですよ」
「それ、いつ?」
「うーん……一週間ぐらい前ですかねぇ?」
「ちょっと見せてくれる? 結構ひどい傷だって聞いたから」
「むにゅう。もう一週間も前なのですよ? 大丈夫ですよぉ」
むにゃむにゃと呟きながら、「眠いんですよ〜。寝かせてください〜」と俯せに布団をかぶりこんでしまった。
本当に、いつもどおりの、メグちゃん。
泣きたくなった。だけど、水瀬は教師であり、大人だった。
「昼休み終わったら教室戻ってね」
それだけを言って、水瀬は保健室を後にした。
布団が震えているように見えたことには、一切触れずに。
「校長」
そして水瀬は校長室にいた。
「二年特Aクラス、神栖慈愛についてなんですが」
ああはいはい、なんでしょうかねぇとまったく威厳のない言葉の中年は頼りなく見える。実際、事務や行事のスケジュール調整はそれなりにうまく出来るし、ある種の親しみ易さはあったが、問題が起こったり圧力がかかると途端に怯え腰になる。なのであまり当てにはしておらず、ほとんど形式的なものとしての報告だった。
「彼女は母親から虐待を受けています」
校長は――戸惑うように、誤魔化すように笑うだけだった。
「水瀬先生。私は個人的にもお母さまとお会いしたことがありますが……そんなことをする人じゃないですよ?」
「…………」
無駄なのだ。わかってはいた。
――何度目になるんだろう。今回も同じだった。
『神栖慈愛に虐待は行われていない』
学校はもう、それは決定事項なのだ。もしかしたら理事長やPTA等も手は回っていて、表沙汰になっても『気付かなかった』の一点張りで済ませる気なのだ。
「良心が、痛みませんか?」
それだけを言い残し、水瀬は校長室を出ていく。
校長の曖昧な苦笑いが癇に触ったのは、結局校長と自分が同じスタンスでしかないことを、理解っているからだ。何も出来ず、見て見ぬ振りを強要される理由は、この校長と同じなのだ。
水瀬はメールを打った。
『至急、お話したいことがあります。出来るだけ早く会えませんか?』
返信は、夜遅くに届いた。