多分、救いのない話。-3--7
「もう、拗ねないの」
数時間後、火口の車の助手席に乗り込んできた社長の第一声がそれだった。不愉快と不機嫌を見透かした上での窘めが、妙な感じに心をぞわぞわさせる。無視。
「家におらんでええのん?」
「慈愛なら大丈夫。もう眠ってるから」
現在、九時。小学生でも寝ていない。
「寝かしつけにはコツがあるの。聞きたい?」
「いらん知識や。俺は一生子供作るつもりあらへん」
「あら、そうなの?」
くすくす笑う。しかしすぐに真顔になって、
「それで、ね。お願いがあるんだけど」
まただ、と思った。頭ごなしに命令してくれる方がよほど楽なのに、いつもそう思う。断れないのに断る自由を与えられるのは、どうしようもなく苦痛だ。
「葉月先生のこと、調べて欲しいの」
苦痛は更に増した。先程の教師の態度。若いって愚かなやなあ、気付いてることに気付かれたら先手を打たれるねんで?
「なんでまた? 調べる必要もあらへんやん。ガッコに圧力かけて、転任させたら話はしまいやろ?」
「なんで?」
「いやなんでって」
――察するべきだった。今は社長ではなく、母としての彼女なのだと。
笑みが純度を増してくる。含みのない、感情のない、ただ笑っているだけの笑顔。
「慈愛ね、先生のこと好きみたいなのよ。私も覚えがあるわ、時々いるのよ格好いい先生って。それを引き離すなんて、私には出来ない話……それに」
少し話が途切れた。彼女が煙草に火をつけ、一息に吸ったからだ。彼女が煙草を吸うところを見るのは何年ぶりだろうと思う。彼女が喫煙するのは気分が昂ぶっている時なのだが、……機嫌がいいのか悪いのか、さてどっちだろう。
「転任? そんなんじゃ足りない……“私の”慈愛が“私以外”の誰かに興味を持つなんて。駄目、絶対許せない。慈愛が誰かに汚されるなんて考えると。考えるだけで……」
ほぅ、とはきだす吐息が異様に熱い。ぎゅう、と自らを抱く彼女は興奮していることが見て取れる。熱を逃がすように、蠱惑的に囁いた。
「“狂わせたくなる”」
決定。彼女は今、ものすごく機嫌が悪い。
唇を舌で湿らせ、再び紫煙を吸い込んだ。実に美味しそうに毒を吸い込む彼女の顔は、もういつもの彼女だ。
「まあ、彼が私から慈愛を引き離そうなんて考える極悪人だと決まったわけじゃないし。それにね、もしかしたら彼なら……私の教育方針を理解ってくれるかもしれない」
「またなんでそう思うん?」
「勘よ。母としての」
なんとなく言葉が見つけられずに、火口も彼女に倣って煙草に火をつける。煙が車内に充満するが、エアコンの性能がいいのか煙はすぐに拡散し消えてなくなる。
「ねえ、駄目?」
「駄目やないけど。大阪人はタダでは動かへんで」
「ふふ? じゃあ、何がいいの?」
少し考える振りをした。全部見透かされてるんだろうなと思いつつ、
「車。なんかたっかいやつ」
「あら、この車だってこないだ貴方にあげたでしょ? 気に入らなかった?」
「……黒塗りのベンツやから渋滞の時は助かってる」
あははと声を立てて笑った。屈託のない笑顔は、たった今見たような狂気じみたものは全く感じさせない。くるくると常に印象が変わり、本性を掴ませない。
「あなたは昔から顔で損してるわよね。あなたは本当に弱いのに。優しいのに」
弱いのだろうか。彼女が言うならそうなのだろう。自分で優しいと思ったことはなかった。だけど彼女が言うならそうなのだろう。
少なくとも、何も出来ない程度には。見て見ぬ振りをする程度には。
「うっさい顔のことはどうでもええ。フェラーリかなんか買うてくれ」
憎まれ口も、彼女にはお見通しだろうと思う。だが、話はここで終わるはずだった。事実、話は終わった。
だからここからは、彼女にとっての単なる遊びの時間。
「ねえ火口」
火口にとっては、懺悔の時間だ。
「キスして」
一切の愛情のないキスほど、屈辱的な罰があるだろうかと思う。