多分、救いのない話。-3--5
あれは慈愛が八歳の頃だったと思う。今日のように、『すぐ来れる?』の一言で車を飛ばしてこの家に来た。そしてあの、“勉強部屋”に行った。
社長は普段、仕事で見せる社長の顔じゃなかった。いつもより遥かに優しく穏やかに、嬉しそうに愉しそうに、――まるで性的な興奮を得ているかのように、現実から乖離した微笑みを浮かべていた。
その社長が、見ているのは――
「め、めぐ……ちゃん?」
慈愛ははあはあと息を荒げながら顔を歪ませていた。それはいい。良くはないが、“腹に包丁が生えている”事実の前には、そんな些末な事象はどうでもいい。
「しゃ、ちょう」
舌が喉に張り付いて、呂律が回らない。椅子の下には血溜まりが出来ている。この血が全て、この小さな少女から流れている。
「社長」
馬鹿みたいに、大学からの仲間であり憧れであり一目見た時からの想い人である女性を――仕事の上司としての、役職名で呼んだ。
ゆっくりと、火口にとっては異様に長い時間をかけ、その女性は呼びかけに応える。
「あら、火口。思ったより早かったわね」
もう少しのんびりしててもよかったのに。もう少しこのままでもよかったのに。うっとりと、夢見るように、そんな言葉を呟きながら、彼女は自分の娘の髪を撫でる。火口が見たことないほど優しい手つきだった。まるで自分が撫でられたかのような錯覚を覚え、背筋がぞくりとする。
「社長、メグちゃん……なんや、しんどそうやなあ?」
言葉は自然に出ていたと思う。刺激してはいけない――それだけを、とりあえず思った。恐怖も疑問も逃避願望も、そんなことは後回しでいい。
そうね、と事も無げに頷く社長。恥ずかしそうに、可愛らしく、少女のように舌をペロッと出して。
「やりすぎちゃった」
眩暈がした。後回しにするはずだった感情も、全てが絶望に塗りつぶされるぐらいに。
「慈愛がね、あんまり可愛く暴れるから、つい。……これからは縛らないと駄目ね。じゃないと危ないわ」
「なあ社長? 今はとりあえず何でもいいから……病院行かへん?」
「なんで?」
絶句。言葉が紡げない火口を見て、何を思ったか、
「慈愛ならいいの。この程度の苦痛に耐えられないような子じゃないもの。ふふ、でも必死に痛みに耐えてるこの子の顔……本当、可愛い」
そう思わない? 私一人で眺めるのは勿体無いぐらい。
どこまでも現状から乖離した言葉は夢を見ているようで、きっとその夢は飛び切り忌まわしい悪夢なのだろうと思った。
「出来るなら“あの人”にも見せてあげたかったのだけれど、今は遠いところにいるから。だからね、あなたを呼んだのよ。ねぇ、可愛いでしょ?」
『勉強部屋』で起こっている悪夢の、たったこれだけしか火口は知らない。