『ショート プログラム』-1
『わたし』(あるいは「はじめに」)
文章を書く理由は、人それぞれだ。
例えば私は、生活のために小説を書く。
残念なことに(と言うべきだろう)私の小説はそれほど売れない。私の書く小説に共感を抱くような人は世間にはそう多くは居ないらしい。それでも一部の人は、私の小説を強く求めているようだ。そのような人達が居る限り、私はたとえ生活のために小説で金を稼ぐ必要が無くなったとしても、私はそれを理由にして小説を書き続けるだろう。
世の中には、目的などなく、まるで食事や排泄といった生命維持活動を行うかのごとく、ごく当たり前に文章を書き続ける人も居る。でも私はそうではない。私は文章を書く時に理由を求めてしまう。生活のため、誰かのため。
これから書く文章は、しかし、生活のためでも誰かのためでもない。
これから書く文章は、私のためのものだ。時々、私は私のために文章を書く。それらは、小説にするにはあまりにも内容が個人的すぎたり、短すぎていたり、取るに足らないものであったりする。
そんな、夜十二時を過ぎてからの自室での呟きのような、文章の切れ端を集めたもの。それをこのように公開することに躊躇いはある。でも、せっかく生れ落ちたのに一度も日の目を見ることなく、暗い部屋から暗い部屋へしか行けないような気の毒な境遇に置いたままにしておくのも気が引ける。彼らはだって、私の子供とも、分身とも言えるものたちだから。
《後恋》
過去形でしか語ることのできない愛は悲しい。それは後悔ですらないのだから。
その時に今一度戻れたとしても、僕はそれを愛だと気付かないだろう。いや、気付かないという言い方は不適当だ。そう、これは、過去を思い起こすという行為を介してしか、認識することのできない感情だ。それに対しては、何をすることもできない。
後悔ですらない、後悔をすることはできない。
じゃあ誰を責めればいい? 過去の自分すら責めることのできない僕は。
この愛は、僕に何も与えなかったし、これから与えてくれることもない。それでも、やり場もなく何の落とし前もつかず、思い出として、あるいは傷跡として、そう、古い扉につけられた古い傷跡のように僕の中に静かに生き続ける。
僕が僕の中の過去への扉を開く時には、その傷跡を見ることになるだろう。そしてたまには、その傷跡の危うい美しさに見惚れ、指でなぞってみたりするかもしれない。そういう時、僕は悲しさと懐かしさを綯い混ぜたような思いをあじわうことになる。
今がその時だ。
こういう時は、決まって僕はコーヒーを飲む。濃くて熱いコーヒーで、舌を火傷させて、そのひりひりする感覚で、僕は今に戻ってくる。