『ショート プログラム』-6
《ぼく》(「あとがき」にかえて)
井の中の蛙大海を知らず。という言葉を、小学生の時に知った。意味を理解したのは中学生になってからだ。そして高校の漢文の授業で、鶏口牛後という言葉を知った。
僕は多分、牛の尻尾にはならないし、鶏のくちばしにもならないだろう。
いつだって、何処に居たって、先頭でも最後尾でもない、その場の平均を取るような位置にいつの間にか居る。これは一種の才能であると見ることもできる。頂点であることのプレッシャーも、底辺であることのストレスも特に感じることなく、それでいて双方をある程度だが理解してやることもできる。
けれど何を成し遂げることも出来ない。
そう気付いたのは、もうその性質が自分に染み付いて離れなくなってしまったころにだった。
高い所に手が届いたこともない。
地面を這い蹲ったこともない。
何かをもぎ取ることも、拾い上げることもしなかった。
大抵のものははじめから持っていて、足りなくなったら半自動的にそれが手渡された。
自分の手持ちのものだけでなんとなく満足し、何かを追い求めることなどしない。
要するに、僕は恵まれていたのだ。
けれど本当に欲しいものは手に入らない。本当に欲しいものというのが何なのかわからないからだ。
創作という行為は、きっと本当は傷つき、打ちひしがれた者たちの特権であるべきだ。
彼らは、その痛みを、苦しみを、なんとか放出してしまうために、あるいは忘れずに保存するために創作をする。
いや、特権などという言い方は失礼かもしれない。彼らは、そうせざるをえないだけだ。
今、僕はこうしてものを書いてはいるが、その意味でこれはきっと本当の創作と呼ぶにふさわしいものではないだろう。僕の中にはそれほどのエネルギーを生み出す痛みが無い。
勿論、傷ひとつ無い人間など居ない。僕も含めて。
僕はだから、生まれてから今までつけられてきた傷、他人から見たら大したことは無い(でも僕にとっては重要な)ちゃちな傷たちから、少しずつ痛みをかき集めて、なんとか書くしかない。
恐らく、それにふさわしいちゃちなものしか書けないだろう。他人から見たら大したことが無いものしか。でも僕は書かずにはいられない。小さくても、痛みは痛みだ。