千から始まり零に繋がる物語-1
あら、いらっしゃい。珍しいわ、こんな夜中にお客様なんて……どうぞ、中にいらして。
ここは、主に何もしてあげられない場所……あなたがどんなに困っていても、ね。
けれど、一つだけお話を聞かせてあげられるわ。それは、永きに渡って綴られてきた、けれど誰も知らない物語……悦び、哀しみ、怒り……何でも在るの。
なんでそんなことをするのか、ですって?
やりたい物事に理由は無いわ、お嬢さん。ただ、わたしがあなたに伝えたいだけなの。
けれど、一つ約束があるわ。…そうよ、それは『あなたもそのお話を語り継ぐこと』……だって、わたしが話して終わる物語なんて、なんだか哀しいじゃない?
だから、そのお話が潰えることのないよう、あなたにもそれを継承していってほしいの。お解りかしら?
……いいわ、それでは、あなたに伝える物語はこれよ。わたしがとても気に入っているお話なのよ。今まで他の誰にも話さなかった、秘密の物語……ある一人の男の、哀しい物語……
特別に、あなただけにはお話しするわ。だから、よく聞いておいてね。
いい?喋るわよ?
題名は、『千から始まり零に繋がる物語』
男は、少女に連れられてこの森に来た。そこは、あらゆる自然を感じることができ、木洩れ日が暖かな素晴らしい森だった。
失職し、離婚し、途方に暮れていた男が出会ったこの少女は、人形のように透き通る肌を持ち、一つの芸術にさえ感ぜられた。男は、街角で出会ったその少女に腕を引かれ、この森に辿り着いた。しかし、街の人々はそれが見えていないかのように、全く見向きもしなかった。
そして、今、二人はこの森に居る。
男は、この少女に興味を持ち始めていた。いきなり腕を引き走り出したのには、やはり何か理由があったのだろうから。それに、この後、少女が何をしてくれるのか、非常に期待していたのだ。
しかし、どれほど待っても少女には何かを始める仕草も何もない。男は、次第に不安になりはじめた。
そして、少女の肩に手を伸ばしかけた、まさにその半瞬後の出来事──
そこは、街角だった。しかし、先程のそれとは、どこか様子が違う。
そう、人が居ない。
昼間はあんなに混みあっていた街が、今はいきなり静寂だ。
男には、何が何だか全く解らなくなっていた。
仕方がないので、自らの家に戻ろうと歩き出した。
しばらく歩いて辿り着いた、見慣れたはずの我が家も、しかし今では違って見えた。
ドアを開け、いつものように中へ入る。
変わらぬ形なのに、やはり変だ。
男は、出ていった妻の部屋に辿り着いた。そこには、大きな古い鏡が備わっていた。
そして、その鏡を覗き込み、驚愕する。
男自身が、映っていないのだ。
その恐怖は、絶大だった。誰も居ない世界で、いきなり自らの姿が否定される恐怖は、計り知れないだろう。
男は、自らを確認するため、体のありとあらゆるところを触った。だが、その感覚は在る。
おかしいのは、鏡の方だ。
しかし、何度見ても鏡には背景しか映らない……いや、それすらも映らない。
男は気付いたのだ。鏡に映るはずの背景が、鏡の中でも反転していないことに。
そして、声は唐突に聞こえてきた。
──ようこそ、ここはあなたの深層心理の世界──
不意に聞こえてきたその女性の声は、とても澄んでいた。
──あなたは、全ての人が居なくなれば良いのに、と願ったでしょう?ここは、その願いのif(イフ)……もしもを見せる世界、鏡の世界──
彼は、その澄んだ声が発した言葉に、心当りがあった。職と妻を失った直後の彼は、確かにそう願ったのだ。