忘れてしまった君の詩-1
−目が覚めたとき。
目に飛び込んできたのは、真っ白な天井と染みるような日光。そして、僕を見つめる哀しげな女性の顔だった。
第1話
「退院、登校、ハプニング?」
「――人間の脳というのは、実に複雑、繊細に出来ているものでね」
白衣を着た初老と思し気医者は、眼鏡の奥にしまわれた瞳を曇らせながらも、事務的な口調で言った。
「電化製品と似ているかな。便利で素晴らしい機能を持ち合わせていても、ちょっとしたショックでナニガシかの不具合を起こしてしまう」
医者の脇には若い看護婦が控えていた。二十代後半。着慣れた感じのナース服が大人の魅力を醸し出している。おそらく、僕のような患者は初めてだろうに、その顔に焦りの色はない。 図らずも彼女と目が合って、僕はドキリとした。
彼女が何とも優しげな微笑みを浮かべたからだ。
そんな僕を顧みず医者の話は続く。
「とりわけ、記憶というのはその最たるものだ。『銘記』、『保存』、『再生』、『再認』。これら四つのシステムを合わせて我々は記憶と呼ぶんだが、君の場合は半年前の交通事故によってこの『再生』の一部分に障害をきたしてしまったようだね」
「…はあ」
としか、僕には答えようがない。
そんな僕に、苦い笑いを浮かべながらも彼は言った。
「まあ、他に目立った後遺症もないことだし、君は晴れて退院だ。これからは週一回、定期的に通院してもらう以外にはさして注意することはない。とりあえずは、おめでとうと言っておこう」
ポン、と彼は僕の肩を叩くと、カルテに何かを書き込み始めた。おそらく、今回の診断の内容だろう。僕は一つ礼を述べてから診察室を後にした。
看護婦さんの「お大事に」という言葉に、複雑な心をかき乱されながら…。
僕の名前は竜堂 龍麻(たつま)。睦宮(むつのみや)東高校に通う二年生である。家族は父と祖母と妹の三人。父は公務員。妹は僕の一個下で、同じ高校に通っている…そうだ。
断言できないのは、それが周りから聞かされたことで、僕の中では何の根拠も証拠ももたない、ただの情報でしかないからだ。
そう。僕は記憶障害者、平たくいうところの記憶喪失に陥っているのだった。
「お兄ちゃん!」
病院の広いロビー。少女の声が響いた。見渡せば見知った顔がそこにはあった。
「香織ちゃん」
「今日、退院なんだって?連絡もらって慌てて飛んできちゃった」
少女の言葉を肯定するように、彼女は紺のブレザーに赤いチェック柄のスカートという制服姿のまま。その手にも学生カバンを持ったままだ。
彼女の名は竜堂香織。僕の妹…らしい。
僕は未だに、この活発で可愛らしい少女が自分の妹だという実感が持てないでいた。
僕が目覚めて一ヵ月。毎日と言っていいほど欠かさず、見舞いに訪れてくれたというのに。
「もしかして、迎えにきてくれたの?」
「うん。そうだよ」
「別に迎えなんかよかったのに」
だからだろう。僕の口はそんな他人行儀な言葉を吐いてしまう。
「そんなこと出来るわけないじゃない」
彼女は少し怒ったように言った。
「でも、学校を抜け出してきたんでしょ?」
今日は平日。時刻は二時を少し回ったところだ。いくら記憶喪失だって、そのくらいのことはわかる。
「…うん」
「そうまでして、僕に付き合ってくれることはないから」
「……」
「香織ちゃん?」
「……」
僕としては彼女を慮って言ったつもりなのだが、彼女は俯いたまま何も口にしてくれない。
多分、怒らせてしまったのだろう。
(困ったな…)
口ではああは言ってはいたものの、心のなかではかなり嬉しかったのである。彼女は自分の大切な時間を割いてまで、僕の帰宅に付き合おうとしてくれたのだ。
それは彼女が僕の退院を心の底から喜んでいることを表している。
それに実際問題、父親から事前に、自宅の住所とここらの近隣地図を渡されているとはいえ、右も左もわからないような僕が、果たして無事に家に辿り着けるだろうかという不安もある。
その点から考えてみても、彼女の存在は波濤に漂う小舟から見る灯台の明かりほどに、僕にとって頼りになるものに違いない。
客観的にみて、そんな彼女に僕は、随分罰当たりなことをしているものだ。
(……)
謝ろうか、という考えが一瞬頭を過った。だけど、何か違うような気がして、僕は結局彼女の細い肩に手を乗せた。
「…帰ろっか」
どうやら、それで正解だったらしい。
彼女はゆっくりと顔を上げ、
「うん!」
満開の笑顔を僕に向かって咲かせてくれた。