忘れてしまった君の詩-22
スチール製の重々しいドアを開けきると、それまで聞こえていたピアノの音がピタリッと止んだ。
「……誰?」
代わりに彼女の声が、僕の鼓膜を震わせる。
「誰なの?」
答えずにいると、少し苛立った口調の彼女。あちらからはドアが邪魔で、僕の姿は確認できないのだ。
僕は意を決して、口を開いた。
「僕です」
そう言うと同時に、ドアの影から離れた。支える者がいなくなったドアが、ゆっくりと閉じていく。
それとは逆に、彼女の眼鏡越しの瞳が大きく見開かれるのがわかった。
「竜堂龍麻君です」
――バタンッ!
タイミングよく、ドアの閉まる音。
それで現実に立ち返ったのか、彼女は慌てて僕から目線を引き剥がした。
刹那、僕の中のどこかがチクリと痛んだ。
『彼女は僕のことを避けている』
そんなことは分かり切っていた事だったけど、改めて確認させられてしまうと、やはり辛い。
僕はそんな心情を悟られまいと、出来るだけ不自然にならないよう挨拶した。
「すいません、突然。お邪魔でしたか?」
「いえ……そんなこと、ないわよ」
動揺しているのか、はたまた、警戒しているのか、
「き、今日はどうしたのかしら?あなたは、音楽をとってないわよね?」
明らかに彼女の声は震えていた。
そうさせてしまっているのが僕だということが、また辛い。少しでも早く、この時間が終わってくれればと僕は本題を切り出した。
「実は、先生に謝りにきたんです」
「謝りに?何を?」
「僕が目覚めたときのことを……」
僕と目を合わせないまま、彼女はビクリッと身を震わせた。わかってはいたが、もう後には退けない。
僕はそのまましゃべり続けた。
「英里先生から聞きました。あなたと僕が、恋人同士だったことを。それなのに僕は、あなたの気持ちも考えずにひどい事をしてしまって……あなたにずっと、謝りたかったんです。本当にすみませんでした」
言い終わると、僕は頭を下げた。夕焼けのなか、真っ赤に染まったフローリングが視界いっぱいに広がる。僕はそのままの格好で、彼女の言葉を待った。
ひどく気まずい沈黙が、僕達を包んだ。
それを破ったのは、僕でも彼女でもなく、ピアノの音色だった。
僕は顔を上げ、そして、魅了された。
暮れ泥む夕日、その陽光を浴びてピアノに向かう彼女に……。僕の乏しい語彙能力ではなんとも表現しがたいが、例えるなら、川を行く水の流れや草原を走る風、それに揺られる季節の草花……そういった自然と透明感のある美しさが、この時の彼女にはあった。
僕はそんな彼女の姿に、アルバムで見た一枚の写真を思い出した。夕暮れ時の田園を写したあの風景写真だ。あれを見た時も、今みたいに素直な感動を覚えたっけ……。
僕は知らず知らずのうちに、彼女と、彼女の奏でる旋律に心奪われた。
どれくらい、そうしていただろう?彼女が呟いた。
「……よ」
「えっ?」
だけど、ピアノの音色にその声はかき消され、聞き取ることが出来ない。僕は集中して耳を澄ませた。
近くで扉を薄く開ける音がした。
「この間、英里に言われたのよ」
「……何を?」と、僕は聞き返した。
英里先生の口調を真似て、彼女は言った。
「『お前はいつまで、そうやって逃げているつもりだ』って」
「うわっ、メチャクチャきつい」
「でも、ほんとのことだから……」と、彼女は寂しげに笑って、
「そう……知っちゃったんだ」
聞き取れるか聞き取れないか、ギリギリの声量で呟いた。
「先生……っ!?」
ギクっとした。
彼女の頬を一粒の涙が流れている。
「謝らなきゃ……謝らなきゃいけないのは、私の方よ。ごめんっ……な、さい……あなたを避ける、ようなことして……」
「ちちち、ちょっと!?」
僕は慌てて駆け寄り、彼女の肩を抱いた。その時にはもう、一粒、二粒とはいわず、あとからあとから、彼女の目からは涙が零れ落ちていた。
「私……こわ、くて……あなたに、また……だ、れ……って……」
「もういい、もういいよ」
言うが、彼女はいやいやをするように首を振るだけだった。
「わたっ……悪い…っに……私が、悪い、のに」
「もういいんだよ!」
「ごめ……なさ……、ごめん……」
「もういいんだってば!」 とうとう見てられず、僕は彼女を抱き締めた。
ワイシャツが涙やら鼻水やらでグショグショになったが構いはしない。
「なんで先生が謝るのさ。悪いのは俺の方でしょ?」「だ……だって」
否定しようとする彼女を、更に強く抱き締めることで黙らせた。
「だってもくそもない。頼むから、自分を責めるようなことしないでくれよ。俺は先生を泣かせるために謝りに来たんじゃないぜ?」
そうだ、僕は彼女にどうしても伝えなければならないことがあるのだ。
それが例え、英里先生が言った通り、今いる僕を無視することになるのだとしても、彼女や『僕』にとっては希望の光になるはずなのだ。
だけど、その前に……。
僕は未だ胸でぐずがる彼女に、訊ねた。
「先生はまだ、俺のことが好きかい?」
腕の中で彼女が頷くのがわかった。
「これから先、何があっても?」
また頷いた。
「例え、記憶を無くしていても?」
何度も頷いた。
僕は、覚悟を決めた。ゆっくりと戒めを解き、彼女の赤くなってしまった目を見て、言った。
「なら、これからも一緒にいてよ。俺がここを卒業しても、社会人になっても、オヤジなっても……ずっと一緒にいてくれ」
顔がメチャメチャ熱い。きっと、顔とは言わず、耳や鼻、首元まで真っ赤になっているに違いない。
「それって……」
そう聞き返した彼女の顔も、僕に負けず劣らず赤みがさしていた。
「プロポーズ?」
「そうなるかな?もし受けてくれたなら約束するよ」「何を?」
「何としても、君のことを思い出す。絶対に」
言い切った僕に、彼女は目を真ん丸にした。