届かない想い-1
春の香りが立ち込める都心の小さな森の中。生まれたての真っ白い小さな花は、ぼんやりと空を眺めていた。森の中では人間の子供達がキャッキャと無邪気にはしゃぎ回っていて、時々、踏みつぶされないかとひやひやする。そんな中、大きな桜の木の幹に背中を預け、ぐっすりと眠りについている青年がいた。
ふと、子供達の蹴ったボールが青年の頬に当たり、眠たげに目をこすりながら青年は目を覚ます。一瞬、花はドキッとした。うす茶色の髪に、透き通る程の白い肌、灰色のビー玉みたいな瞳。子供達に微笑みかえす、柔らかいまなざしに、花は溶けててしまいそうになった。桜舞い散る春の陽気な空の下、真っ白な花びらがうすピンク色に変わった瞬間だった。
彼は毎日3、4時間程、この森を訪れるようになっていた。ほとんどの時間、彼は眠っていたが、時には小さな声で歌を口ずさむこともあった。その度に花は耳を澄ましし、彼のメロディに身を預けていた。
花は少しずつ気づき始めていた。彼は人間の男性であり、彼にとって自分は本当にちっぽけな存在に過ぎないのだと。いや、存在自体気づいていないのかもしれない…。切なそうに揺れるピンクの花には見向きもせず、彼は歌い続ける。
春が過ぎ、夏が来た。新緑覆うこの季節。彼は桜の木の下にできた木陰で、いつもにまして沢山眠っている。ミンミンと騒がしく鳴き続けるセミの声も、彼にとっては子守歌のようだった。
眠る彼の横顔をそっとのぞきこむ。彼の寝顔は天使そのものだった。ここを訪れる、どんな人達よりも端正な顔をしている。そして、日毎に移り変わってゆく木や花々をみる瞳は、どんなものよりも柔らかく優しかった。
しかし、穏やかに寝息をたてる彼の隣。照りつける日差しの中で、花はみるみるとしおれていった。自分はもうすぐ『死ぬ』のだろうか?ぼんやりりとした意識の中、彼女は思った。『死』とはどんなものなのだろう?舞い落ちる花びらが地に触れた瞬間。ロウソクの火を消した時のように彼女達のかすかなささやきは、フッと消える。そこには悲しみとは違う『寂しさ』があった。誰かのささやきが消える度、花は不安におそわれれる。『次は自分の番ではないか』と度々鼓動が高まった。
『今がその瞬間なのかもしれない。』花はキュッと目をつむった。これから迎え入れるべく『死』という、漠然とした恐怖に必死に耐えようとする。
その時だった。
「パシャッ。」
冷たい水の感触で、花は現実に引きき戻された。
「暑かったデショ?」
花はドキッとした。眼前に彼の笑顔がある。見上げると、『ミネラルウォーター』と印刷されたラベルが入ったペットボトルの口から、水が滴り落ちている。
『しおれちゃうとこだったよね。ごめん。』
彼は心配そうに花を見ている。。花は奇跡を見たような気持ちになった。
そして、はにかみながら『ありがとう。』と、ささやいく。つややかなピンク色の花びらに、気づいたのだろうか?彼は微笑みながら彼女を見ていた。
『ほんの一瞬でもいい。この人の癒しとなれるのなら、命を燃やしてでも咲き誇りたい。』花はこの日、自分に誓ったのだった。
小さな森の中、花はいつも一人だった。他の花々は彼女を軽蔑し、あざけ笑った。花達は互いに美を競い合い、赤や黄色の色鮮やかで大きな花びらを、絢爛と咲き誇っている。そして、小さなピンク色の花に聞こえるように、陰でヒソヒソとささやきあうのだった。
寂しさを噛みみしめながら、それでも花は咲き続けた。彼を想い、癒しとなるために。背筋を伸ばし、太陽に向かって…。
『一番綺麗だなぁ…。』
けなげな花を見た桜の木は、ポツリとつぶやいた。
夏も過ぎ、秋がやってくる。木の葉色どる、この季節。彼はほとんど眠らなかった。木の幹に背中を預け、目を閉ざすことがあっても、花には彼が起きていることが分かった。彼は瞳を閉じて、秋の匂いや、木や花の囁く声、頬をかすめてゆく風の音を、心で感じとっているようだった。そして誰も気づかないような、わずかな自然の移り変わりや、時の流れ……目には見えないものを、彼は懸命に探りとろうとしている。
花は度々泣き出しそうになった。どうして私は花なのだろう?どうして彼は人間なのだろう?彼の耳元で、どれほど精一杯ささやいても、彼は気づかない。『愛している』という言葉さえ、彼の耳には届かない。
流れゆく風よ、大地を照らす日の光よ、どうかこの想いを彼に届けて下さい。来る日も来る日も、花は小さな祈りを大空に捧げ続けた。