結界対者 第一章-1
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二ヶ月前、年開け間もない寒い冬の朝に、俺の母親が死んだ。
元々母は、俺が幼い頃から病弱で、それが原因で俺と暮らせない程の状態だったから、いつかはこんな日が来るのだろうと、なんとなく覚悟はしていた。
だから、胸が潰れる程の悲しみも無かったし、喪失感や絶望感の類も全くといって良いほど感じなかった。
ただ、少しだけ後悔をした。
俺の中にある母親の記憶といえば、週に一度の面会の時に、病室で窓に映る空を背に、俺に微笑みかける優しげな瞳だけ。
もう少し、母親の記憶が欲かったと今更ながらに思う。
そんな想いからだろうか。
俺は、いつからか、母の居た街で母がその目に映してきたものと同じものを感じながら暮らしてみたいと考える様になった。
そして、遅咲きの桜が満開の今日、俺は母の街であるここ神埼市で一人暮らしを始める。
それまで暮らしていた親戚の家の中に、俺の一人暮らしを反対する人間は誰一人として居なかった。
それどころか、叔父も叔母も、喜々として神埼の高校への編入手続きや、部屋の手配を進めてくれた。
もっとも、母の残した遺産があってこその事ではあるが、ここまで手際よくやられると、それほど迄に俺が邪魔だったのかと思い知らされた気分になる。
いや、事実、そうなのだから仕方がないのだが。
元に居た街より、電車に揺られる事約一時間。
かつて母に会う為に通い慣れた終着駅は、今日から一番身近な駅に変わる。
大して広くもない癖に、やたらと人で溢れ返る駅前。
映画館、デパート、ボーリング場……
四方を山で囲まれながらも、見渡せる広さの街並み。
ありふれたメインストリートを行き交うありふれた人並み……
しかし、その全てが新しい。
始まりの春が、今ここにある。
駅前より延びる大通りを暫く歩き、何本目かの路地に入り再び暫く歩くと、立ち並ぶ建て売り住宅の狭間から、俺の為に用意された部屋のあるアパートが見えてくる。
そこでは今日から普通に暮らし始める事が出来る様に、数日前から少しづつ準備を進めておいた。
だから今、とりあえず部屋に寄る用事は、今日から通う予定の高校の制服に着替える事、ただそれだけだ。
別に今日から登校しろと言われた訳ではない。
ただ、今日の午前中のうちに書類を提出したり色々と説明を聞く都合で、学校へは行かなければならなかったから、ついでに午後から授業に出て、面倒な自己紹介やらその他諸々を済ませてしまおうと思ったのだ。
一日でも早く学校に慣れたいので…… とかなんとか言ってやれば大丈夫だろ。
面倒は後回しにすると、更に輪をかけて面倒に思えてくるからな。
アパートへは準備の為に散々出入りを繰り返していたから、これといって今更新鮮味は感じない。
鍵を解き、ドアを開け、手早く部屋に入り、真新しい制服に袖を通す。
紺色のブレザーは趣味だが、灰色のズボンはイマイチ納得が行かない。
しかしまあ、文句も言っていられないのだ。
急な編入に応じて貰ったのだから……
俺は鞄の中に、必要な書類と午後の授業の為のテキストを放りこむと、部屋を背に再び街へと早足で歩き出した。