追う者、追われる者-2
「あれは……ナイフ?」
男はすぐに手をポケットの中に戻す。リョウコはもう、男の方へ視線を向けることができない。
かちかち、かちかち、かちかち……
それが歯の根が合わなくなっている自分が出している音だということを、リョウコは暫く気が付かなかった。
同時に呼吸も乱れていることに気付く。
「やだやだやだ……やだよ。」
とにかく足を動かし、男との距離を保とうとする。
それは蜘蛛の巣に捕らわれてもがく哀れな生贄に似ている。
こここつ、こここつ……こっこっこっこっ……
更に男が歩調を速めた。だがリョウコの足はこれ以上の速度を出すことは叶わない。
少しずつ、少しずつ二人の距離は縮まる。
リョウコの肌に現れた鳥肌は、全身を這い回りながら警鐘を鳴らしている。
リョウコは肩から提げた鞄から、震える手で一本のシャープペンシルを取り出し、胸の前で握りしめた。
「助けて……助けて……」
その祈りを聞き入れてくれるものはこの場にはいなかった。それでも、リョウコは呟き続ける。
祈りに気を傾ければ、恐怖に侵されずに済んだからだ。
だが、ふと、リョウコは気付く。
音が、聞こえない。
祈りに気を向けるばかり、リョウコは完全に周囲の音を遮断してしまっていた。足音だけが男との距離を知る情報である。
それを遮断していた今、リョウコは男との距離を知ることができない。慌てて足音を拾おうと、聴覚を集中させようとしたとき、
ふーっ、ふーっ、ふーっ……
真後ろで、聞こえた。
「いやぁぁぁ!」
リョウコは背後へ向けてシャープペンシルを思い切り突き立てる。
皮膚を突き破る嫌な感触と共に、吹き出す鮮血と悲鳴。
「ぎゃあああ!」
男は刺された右腕を押さえながら、その場に倒れ込んだ。
自分の手に残るおぞましい感触と、目の前でのたうつ男を見て、リョウコは腰を抜かしてしまう。
その時、今の騒ぎを聞き付けたのか一人の女性が駆け寄ってきた。こんな時間帯に一人なのは、仕事の帰りだからだろう。
女性は苦しそうに呻き声を上げている男を見るなり、悲鳴を上げた。
リョウコは立ち上がれないまま女性に抱きついて助けを求めるが、女性も腰が抜けたのか地面に腰を下ろしてしまっていた。
必然的に二人は抱き合う形になる。
男がふらつきながらも立ち上がると、こちらに目を向ける。
その顔には憎悪と怯えが浮かんでいた。